歪み
かれこれ20年以上人間をやっているが、一向にこの世界や自分自身のことを理解できる気がしない。
生きれば生きるほど腑に落ちないことばかりが増えていく気がする。
私はここ数年で、腑に落ちないことは全部"歪み"のせいにするようになった。
そもそも世の中が歪んでいて、そんな歪んだ世界に生きる私たち人間も、みんな歪んでいるのだと。
当然そんな歪んだ人間たちが持つ思考や価値観なんてのも全部、歪んでいるのだと。
こりゃあもう…ぐにゃんぐにゃんだ。
中学生の頃に美術の教科書で見た、サルバドール・ダリの『記憶の固執』を思い出す。(このタイトルだけだと「?」となった貴方には、是非ググって絵を見ていただきたい)
そして、今私が生きている世界もまた、あの絵のように歪みまくっているのではないかという考えに結果落ち着く。
このごろ特に、世間の歪みと自分自身の歪みのズレを強く感じることが増えたような気がする。
そもそも世間とは何か。という話になってくるのだが、私が思うにそれは多数決によって定められている。
きっと多ければ多いほど絶対的な"世間"になるのだろう。
中学生の頃に公民の授業で何度も耳にした"世論"もそうだ。
多数派は"通常"とか"一般的"とかいう言い方をされるようになる。
もしもこの仕組みが永遠に続くのであれば、これは相当恐ろしいことだ。
例えば
戦争したい人が多数であれば戦争が"通常"になる。
なんてこった。
極端だと思われるかもしれないが、残念ながら「あり得ない」と言い切ることもできない。
色々考えてみると、多数決って公平なようで公平じゃないような気がしてくる。
このグニャグニャな世界で、カクカクの制度やカチカチの概念をつくった人間の行動力は確かに凄まじい。が、カチカチの概念がネチネチしてくると厄介だ。
そんなカチカチネチネチが、ある日27歳独身女に降りかかった。(この書き出しで、おおかた話の予想がつくかもしれない…笑)
ズバリ結婚の話である。
ある日、母がハハ友(ママ友というと若い感じがして違和感があったのでハハ友でいこうと思う)から送られてきたというメッセージを転送してきた。
娘の結婚式がどれほど感動的で至福の時となったか…という内容だった。ああ、きっと、想いが溢れて溢れて、誰かに伝えたくて仕方がなかったのだなぁと思った。微笑ましく感じながら最後の一文に達したとき、私の顔はひきつった。
"〇〇ちゃん(私の母)も、いつの日か楽しみにしててね〜♡"とあるではないか…!
差し出がましいわ!
と、心の中で盛大にツッコミを入れた。
私が母に「私もいつか結婚するから楽しみにしててね〜♡」というならまだしも、、。
少なくともあなたのセリフではないですよ、と。
最後のその一言だけは余計ですよ、と。
人々がそれぞれいろんな考えをもって生きているこの時代に、急に昔の名残りを感じるネチネチしたものを持ってこられたような気がした。
なんだか幸せの押し売りのようで。
息苦しくなった。
知人の幸せはとても嬉しいが、
価値観の押し付けは正直しんどい。
"結婚するかしないか"
これは私からすれば
"フィッシュorビーフ"
なのだ。
単なる選択肢にすぎないのである。
良し悪しはない。
そういう考えの私にとって
遅かれ早かれ、結婚はするよね?といった当たり前感を突きつける行為はなかなかのストレッサーだ。
結婚するかしないかなんてどうだっていい。
したくなればする
したくなければしない
ただそれだけのことが
なかなか普通にはならない。
それは間違いなく、結婚するしないに優劣をつけている人が多数存在するからだ。
結婚の話に限らず
兎角この世は歪んでいる。
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