見出し画像

混沌としたタイムラインとのお付き合い

少し前、Twitterを眺めることがどうしても疲れてしまう時期があった。

私はこのnoteのほかに、TwitterもFacebookもInstagramもやっているのだけど(FBとInstagramは面識のある友人だけでやっています)、Twitterがやっぱり一番混沌としているなと思う。

なんでかなぁとぼんやりと考えた。基本的には「文字」で溢れていること、それと、人の感情が一番垂れ流れやすいからかな、と思った。

これは人によって感じ方は様々な気がするけれど、文字がうわーっっと垂れ流されていくのをみると、自分の頭の中に余計な情報を無理やり投入されている感覚に陥って、疲れてしまう。やっぱり、どうしても文字をみると、目が勝手に文字列を追って読んでしまうし、読んだらそのまま頭の中に入っていくし。

その内容があまりに交通整理されていないと、会ったこともない、知らない誰かと誰かが私の頭の中に勝手に入り込んで喧嘩をしている、みたいな感覚になる。そしてその交通整理されていない感じ、とか、違う前提に立って繰り広げられる双方の主張に、嫌気がさすのだ。

でも不思議なことに、その混沌としたTwitterのタイムラインは、自ら作り上げたもので。自分で、この人の発言興味あるな、と思ったひとをフォローし、その人のツイートはもちろんだけど、その人が「いいね」とかRTをしたツイートが流れてくる。芋づる的に、その人の考えでタイムラインが埋まっていく。それに対して「混沌としている」と思ったり、違和感や疲れを感じるということは、私自身が作り上げたこのタイムラインは、私自身と「合っている」ということではないんだな、と思い知らされる。共感したつもりでいたけど、実は違う感覚の持ち主だったんだ、と。

最初は、情報収集だったり、この人はどんな考えの人なんだろうか、と興味本位でフォローする。自ら作り上げた世界で苦しみを感じるなんて、なんだか滑稽な話だけれど、それで得るものもそれなりにある。反面教師みたいなもので、「なんで違和感を感じるのか」「どこに不快感を覚えるのか」ってぼんやり考えていると、なんとなく自分の性格や感覚が見えてくる。

首を痛めそうなほど頷いてしまうくらい共感するものもあれば、ん~そうか?と不愉快になるものもある。もしかしたら、その時々の自分にとって共感するものだけのタイムラインを作り上げればよいのかもしれないけれど、それでいいのだろうか?とも、思う。

きっと自分の中にも、相反する感情や考えは存在しているし、同じ人なんていないわけだから、混沌とした中で自分なりに見えてくるものもあったりして。

いろんな意見がある、いろんなひとがいる、ということを忘れないでいたいから、時々「どうなの?それ」と思うようなことがあっても、そこから目をそらすのではなくて、その感覚を大切にしていたいなーと思ったりする。結局は自分の意見を持ちたいしそれをちゃんと伝えられる人になりたいからこそ、自分にとって心地いいところだけを見るんじゃなくて、違和感を大切にしたいな、と思った次第です。(もちろん、ただの中傷や悪質な嫌がらせとかは思いっきりスルーよ!)

あーもうTwitter疲れたわ、と思ったら、1日とかだけでも見ないでいると、結構ちゃんとデトックスされていくなぁと思った。所詮、ネット上のことだから。アプリをそっと閉じたら、目の前に広がるのはいつもの自分の部屋、近所のコンビニ、大好きな友達や家族の顔。

ネットの世界で居心地のいいところだけを一生懸命構築するより、どこまでも安心できるリアルの世界を誠実に手に入れることに、より一層の労力を割いた方が、きっと幸せになれる。そんな気がする。

Sae

いただいたサポートは、私のテーマでもある「マイノリティ」について考える・発信するために必要な書籍購入費に使います。必ず社会に還元します。