映画とお蕎麦の日。『ロストケア』、『DEATH NOTE』
土曜日は秩父へ桜を撮りに行っていた。
藤原竜也さんの生まれ育った場所としても、個人的にも惹かれてやまない特別な町のあたたかさ。
夕陽が沈むまで桜吹雪を眺めて、
それから夜は日本一のウイスキーを飲んで、
遅くに帰って、日曜日は寝坊からスタートした。
慌てて起きて約束していた姉に電話したら、事情で数日前にはキャンセルになっていたらしい。寝耳に水とは正に。でもよかった。
ちょうど幸せでくたくただったから、のんびり映画でも観ようと、
『ロストケア』を観に行くことに。
原作はなんとなく知っていて、そのテーマの重さに少し警戒したまま観ないかもなと思っていたけれど
職場で同僚から「家族のことが一番わからない」という趣旨のレビューを聞いたら、観たくなった。
介護家族に慕われる献身的な介護士が、『救い』と談る『殺人』事件。
京都伏見の事件を思い出さずにはいられない内容に変わらないどころか増え続ける問題に胸が痛んだ。訪問介護を受ける老人たちの家族の前での変貌ぶりや、斯波が父と送った介護生活の厳しさに、格差が生む現実を突きつけられる。つきっきりで介護をしていると働くのは難しい。働かないとお金がない。お金がないと、生きていけない。そのための保証や保護を受けるハードルは本当に困っている人のための高さではない。苦しい。誰も助けてくれない。
重度の認知症である斯波の父を演じる柄本明さんが凄まじかった。斯波を生きる松山ケンイチさんの瞳がずっと濡れていた。「せめて楽に」と考えた斯波の震える喉声と膜を張ってボタリと落ちてくる涙はしばらく忘れられそうにない。
わたしは介護を経験していないし、家族とも離れて暮らしているから想像の実感が薄い。事件の報道を見て受けた衝撃は映像となって襲ってきたけれど、それ以上に痛みをもたらしたのは、長澤まさみさん演じる大友検事の母への言葉だ。
「お母さん、私が娘で、幸せだった?」
焦点は『殺人』に対する『裁き』ではなく、もっと深いところにある。斯波と大友、対峙した二人から静かに燻る後悔が心を抉ってきた。
亡き自分の母に聞きたくてももう聞けない問い。
生きるとは、死ぬとは、
生かすとは、殺すとは、
家族とは、幸福とは。
グルグル考えながら散歩していたら大好きなカレー屋さんのランチが終わってしまった。
とぼとぼ引き返すと、目に止まったお店に惹かれて入店。モダンで趣ある古民家の内装に笑顔が優しいご夫婦。
「カウンターにしますか?」そう聞かれると、店主にほど近いその席が好きなので即答するのだけど、奥の灯油ストーブと置かれたヤカンに吸い寄せられてテーブル席へ。
席に着くと『店内撮影禁止』『パソコン、スマホ禁止』という注意書きと、針のついてない時計に、「今、この瞬間、時間から解放される店」の文字。
大好きになった。
手打ちのお蕎麦とセットの珈琲。
味付けも盛り方も丁寧でやさしくて記憶に残る。
おいしいな。
あああ、しみわたる……。
映画で少し冷えた心にお蕎麦のかおり。
浸っていると、「昨日、雨降った?」「さあ。でも道路が濡れてたよ」なんて微笑ましいご夫婦の会話が聞こえてくる。
そういえばお店の前に「UFO売リマス」なんて書いてあったから立ち止まったのだけど、たっぷり時間を忘れてしまえるこの感覚は、異次元だった。
お会計の時、ご主人から「あさってのモヤモヤさまぁ〜ずに出るらしいからよかったら」と言われる。
メディア露出しない店かと思ったら、そうでもないところも推せる。またぜったい来よう。
そしてモヤさま、見よう。
暗くなるまで押上を散歩して帰ってから、寝る体制を整えてBSで映画『DEATH NOTE』を観る。
愛しい愛しい夜神月さま……。
ちょいちょいCM入るのが煩わしいけれど、大好きな大好きなその人はやっぱりいつ観ても格別な透明感をもって画面の中で輝いている。
この作品も、正義や罪と罰、性善説性悪説についてさんざん考えさせられてきたけれど、松山ケンイチさんのLにフォーカスを当てると違う答えが見つかるような気がする。
『ロストケア』の斯波が良すぎて、夜神月さま信者でもLというひとをまた考えてみたくなった。
last nameの放送はまた次の日曜日。
斯波の演技もまた観たい……かもしれない。
秩父でもお蕎麦。
押上でもお蕎麦。
いちばん飽きないのはお蕎麦と、
愛する藤原竜也さん。