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私にとっての、書くこと

今日は、Kaoriさんの作品を読んだり、
野やぎさんたちの企画を通して、
自分にとって、書くことと創作について、改めて考えてみたいと思いました。


振り返ってみると、
私は「作り上げる」ということが好きなのだと思う。

頭の中でモヤっと考えていることを、
少しずつ外に出すことも。

外に出たものが、形になっていく過程も。

苦しみながら、完成させることも。

出来上がったものを愛でることも。

そして、それを誰かに見てもらうことも。

創作の過程すべてが、好きでたまらないのだ。




ただし、
手先が器用でも、
色彩的センスがあるわけでもないから、
おのずと情熱が向く先は、
形のないもの、になる。

それは時に、
学生時代の音楽だったり、
社会人時代のシステムだったりしたわけだ。

そのどちらも誰かと作り上げるものだったけれど、
自分ただ一人で、その過程全てを味わえるのが、
文章を書くことだった。


小学生の時から、作文は得意だった。国語はいつだって満点の評価だった。

高校生の頃は、文章を読んだり書いたりする、特別なクラスがあり、私は優秀作品として掲示の常連だった。皆が30分かけて書く課題を、5分で書くことができた。


今何者にもなっていない私は、自分で自分を凡人だと自覚しているけれど、
もし誰しも生まれ持った才能というものが、一人に一つずつ備わっているのだと仮定したら
それは、私の場合は、文章を書くことなんじゃないかなとは思っている。今のところ。

ただし、書かないと生きていけないか、
と問われるとそうでもない。

大学生や働いていた頃など、書かないでいた期間も長い。他に音楽やシステムを、つくっていたからかもしれない。
書くことの代わりはあって、書くこと自体にそこまでの渇きや情熱はないのだ。だから、凡人なのだろうなぁ。


じゃあ、なぜ書くのか。

冒頭のように作り上げることの一つとして、書くことが好きなのもあるけれど、
それ以上に、知りたいから、というのが最近は大きい。

人生の宿題。

生きてきた中で、引っかかっている何か。

置き去りにしてきた何か。

大事にしなければならなかった何か。

それから、
今感じているけれど、すぐに手を離れてふわふわどこかへ飛んでいってしまいそうな何か。


そういうものの一つ一つを見つけ出し、
色々な角度から眺め、
掘り下げ、
死ぬまでに解決していく手段が、
私の中では書くということなのだと思っている。

noteをはじめてこの一年ほど考えているのだけど、
どうやら、その「何か」は尽きることがなさそうなのだ。困ったことに。
だから、死ぬまで、きっと休み休みでも書き続けるんだろう。



とはいえ、自分一人だけでは、書けないことが多すぎる。

元来自堕落な性分の上、
生きてる間の宿題となれば、期限となる「死ぬまで」は長すぎて、ぼーっとしてる間に何年も過ぎてしまう。

お題をもらったり、もっと短い締切を設けてもらったり、
とっかかりがあって書ける、ということに改めて気づく。だから、noteという場は、本当に有難い。

書いたものを誰かと共有できるのも嬉しい。
褒めてもらったり、反応をもらうと、
それも次に書き出す力、完成させる励みになる。

そして、一人だけでは、
見えてこなかった世界も、たどり着けなかった答えにも、
ここで書けば、行き着くような気がしている。


そんな気持ちで、今日も書いている。



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人生の宿題の一個に取り組んで、
少しは書けたなぁと思った自分の作品はこちら。
でもまた、同じ課題について、何度も何度も書くのだろうな。

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