【論文翻訳】ムハンマド・ファールーク「一時化された永遠性:20世紀インドの思想家アシュラフ・アリー・ターナヴィーと古典的スーフィー思想の復興」


1. 概要

 本記事は、Muhammad U. Faruque, "Eternity Made Temporal: Ashraf 'Alī Thānavī, a Twentieth-Century Indian Thinker and the Revival of Classical Sufi Thought," Journal of Sufi Studies 9, 2020, pp. 215-46の全文を翻訳したものである。

解説

 当該論考は、20世紀南アジアのイスラーム思想家アシュラフ・アリー・ターナヴィー(Ashraf 'Alī Thānavī, d. 1362/1943)のスーフィー思想、とりわけ彼の「完全人間(al-insān al-kāmil)」論という形而上学的教義の解明に光を当てたものである。ここでは先ず、論考の主要人物でありながら、未だ広く知られていないターナヴィーの思想的重要性について一言しておきたい。
 1866年に北インドの町デーオバンドに創設されたマドラサを母体とするウラマー集団であるデーオバンド派の主要学者として活躍したターナヴィーは、主にウルドゥー語で600点以上という驚異的な数の著作を残すことで、近代南アジア・イスラームの言説空間の形成に大きな役割を果たした。膨大な著作群の中でも、『天国の装身具(Bihishtī Zewar)』はムスリム女性への啓蒙書としてウルドゥー語で執筆されたターナヴィーの代表作であり、今日の南アジア・ムスリムの間でも読み継がれている。さらに、『天国の装身具』はヒンディー語やパンジャービー語といった南アジア諸語への翻訳のみならず、西洋のムスリムに向けた英訳も刊行されており、同書の影響力はイスラーム世界全体に波及していると言っても過言ではない。
 ターナヴィーの名は日本ではあまり知られていないが、西洋の学界では、パキスタン建国詩人イクバール(Muḥammad Iqbāl, d. 1357/1938)やイスラーム復興論者マウドゥーディー(Abū al-A'lā Mawdūdī, d. 1399/1979)に匹敵する程の重要性を持つ、近代南アジア屈指の思想家として評価されている。Zamanによれば、「近代南アジアの宗教的・政治的変化の中で、ウラマーの学問伝統や権威を守り抜こうとする努⼒を、ターナヴィーと同程度に体現した⼈物はいない」のである(Muhammad Q. Zaman, Ashraf 'Ali Thanawi: Islam in Modern South Asia, Oxford: Oneworld, 2007, p. 1)。近代南アジアにおいて最も著名且つ重要な「ウラマー」という風にカテゴリーを限定すれば、恐らく現地のムスリム知識人や研究者の多くはターナヴィーの名を挙げるのではないだろうか。
 本記事が紹介する論考Faruque, "Eternity Made Temporal"は、そのターナヴィーのスーフィー思想家としての側面に着目し、特にイブン・アラビー(Ibn Arabī, d. 638/1240)によって提唱された完全人間論を、同人物の主著『叡智の台座(Fuṣūṣ al-Ḥikam)』やペルシア詩人ハーフェズ(Shams al-Dīn Muḥammad Ḥāfiẓ, d. 792/1390)の『詩集(Dīwān)』への注釈を通じて、ターナヴィーがどのように解釈したのかを論じている。当該論考の手法が注釈書の分析であるため、常に注釈の対象となった原典テクストとの比較・対比が必要とされるものの、Faruque氏は脚注での記述によってその難点を見事にクリアしている。この論考の示唆的な点は、ターナヴィーとイクバールの完全人間論の比較考察である。詳細は全訳テクストに譲るが、伝統派イスラームの潮流に連なる学者・スーフィーであるターナヴィーと、近代合理主義的なムスリム知識人であるイクバールでは、完全人間を論じる際に参照する人物・テクストや教義内容が全く異なるというのである。さらにその相違が、ターナヴィーが誰に向けてスーフィズムの教説を伝えるのかという読者層の違いにも影響を与えていると、Faruque氏は考察する。
 これまでのターナヴィー研究史を振り返ると、やはり彼の主著『天国の装身具』に関する研究が多くを占めており、同書の分析を通じてターナヴィーの法学理論や改革思想を明らかにするという手法が支配的であった。ターナヴィーはスーフィズムに関しても多くの著作を残しているため、それらに関する研究も一方では精力的に進められてきた。しかしながら、ターナヴィーのスーフィズム観に関する研究は、概してその実践的側面に注目が集まり、存在一性論(waḥdat al-wujūd)や完全人間論といったスーフィー形而上学の側面は看過される傾向にあった。それゆえ、Faruque氏の論考はこれまでのターナヴィー研究史を踏まえた上で、未だ明らかにされていないターナヴィーのスーフィー形而上学を分析した研究であるという点で、画期的意義を有するものであると言える。

著者紹介

 当該論考の著者Muhammad U. Faruque氏については、過去の記事で既に紹介しているため、ここでは割愛する。

2. 全訳

 以下は、Faruque, "Eternity Made Temporal"の全訳である。参照のための便宜として、各節の見出しには当該論考の頁数を記した。当該論考におけるアラビア語・ペルシア語・ウルドゥー語の術語やムスリム名のローマ字転写に関しては訳者の手法に統一したが、一部例外もある。ムスリム名には適宜没年を付記し、注は全て文末に纏めて記した。また、引用文の訳出に際しては、著者の英訳を尊重しつつも、訳者も原典テクストを参照した上で、明らかに修正が必要と感じた箇所には手を加えている。
(※ 論文の翻訳・公開に際しては著者Faruque氏の許諾を得た。)

要旨(p. 215)

 本稿は、近代南アジアにおいて最も影響力のあるスーフィー思想家アシュラフ・アリー・ターナヴィー(Ashraf ‘Alī Thānavī, d. 1943)の著作群の分析を通じて、デーオバンド派の学者が古典的スーフィー思想と如何なる関係性にあったのかを分析するものである。本稿では、ターナヴィーによる南アジア・スーフィズムへの貢献に焦点を当てることで、彼が社会変革の潮流において、古典的スーフィズムの教説を如何なる仕方で保全・擁護・復興・拡散したのかを論証する。また、ターナヴィーのようなデーオバンド派の学者たち——彼らは浅はかな原理主義的言説の唱導者からは程遠い存在である——が、散文・韻文作品の双方に見える難解な形而上学的教義を定式化するための象徴や比喩に加え、合理的論証という手段をも頻繁に用いるスーフィー形而上学のような、最も洗練されたイスラームの知的潮流に沈潜していたことをも立証する。

キーワード(p. 215)

スーフィー形而上学、イブン・アラビー、完全人間、ターナヴィー、ハーフェズ

1. 序論(pp. 215-20)

 今日のメディアにおいて、デーオバンド派——恐らくそれは、中東の外で最も影響力あるイスラーム復興の潮流である——という名は「マドラサフォビア」や原理主義、ワッハーブ主義、そしてターリバーンなどと一般的には結び付けられる[1]。しかし、近年の研究が示してきたように、世界最大のマドラサ・ネットワークの一つにこうした表面的な諸特徴を付してしまうと、デーオバンド派の活動史が示す社会や個人の改革(iṣlāh)に対する多様な試みのみならず、イスラームの霊的・神秘的伝統(=スーフィズム)との密接な結び付きといった、同派の活動に内在する多様性を正当化することがほとんど不可能となる[2]。これまでのデーオバンド派に関する研究において看過されてきたのは、イブン・アラビー(Ibn ‘Arabī, d. 638/1240)やハーフェズ(Ḥāfiẓ, d. 792/1390)といった、古典的スーフィズムの偉人たちと同派の運動の関わりである。先行研究において明らかにされてきたのは、(スーフィズムの法学上の位置付けや倫理としてのスーフィズムといった)デーオバンド派とスーフィズムの多様な関係性、あるいは敵対関係にあるバレールヴィー派とのビドア(bid‘a, 異端的逸脱)やマウリド(mawlid, 預言者ムハンマドの生誕祭)、ウルス(‘urs, スーフィー聖者の命日祭)[3]などをめぐる論争である。デーオバンド派がスーフィー形而上学(Sufi metaphysics)といった諸潮流[4]と如何なる関係性にあったのかについては更なる学究が必要であり、この点はまさに本稿が取り組む課題でもある。
 よく知られているように、イブン・アラビー[5]とハーフェズ[6]の双方は、インド亜大陸や他の諸地域、あるいはShahab Ahmedが「バルカン・ベンガル複合体(Balkans-to-Bengal complex)」[7]と呼んだ地域において甚大な影響を及ぼしてきた。ここで、アシュラフ・アリー・ターナヴィーのような最も影響力のあるデーオバンド派の学者たちが、イブン・アラビーの『叡智の台座(Fuṣūṣ al-Ḥikam)』やハーフェズの『詩集(Dīwān)』に対する注釈書を残していることは注目に値する。というのも、『叡智の台座』は恐らく、ポスト古典期(1200年以降)において最も影響力あるスーフィーによって執筆された、あらゆるスーフィズム関連作品の中で最も議論を呼び、その作品の形而上学的傾向も群を抜いているからである。一方、酒や愛といった官能的比喩を主題とするハーフェズの『詩集』に関しても、それに対して批判的見解を持つ者も一定数はいるが、スーフィーやそれ以外の人々によって『叡智の台座』と同程度に受容されてきた。
 したがって、本稿ではデーオバンド派において最も影響力のある学者アシュラフ・アリー・ターナヴィーに焦点を当て、特にスーフィズムに関する彼の形而上学的人間論に関する作品群を読み解く[8]。Qasim ZamanやMargrit Pernau、Brannon Ingram、SherAli Tareen、Ali Mianといった研究者たちは、ターナヴィーの思想の重要な諸側面を明らかにしているものの、イブン・アラビーの『叡智の台座』やハーフェズの『詩集』の注釈書を扱った研究は存在しない[9]。それゆえ、本稿ではターナヴィーを古典的スーフィズム思想の解釈者・復興者・普及者という枠組みで分析する。さらに、ターナヴィーの重要性は『叡智の台座』や『詩集』の注釈者であるという点のみならず、多くの支持者を擁するデーオバンド派の中心的な唱導者として、古典期スーフィズムの難解な教義を少数の限られた聴衆——後により多くの人々に伝わっていくが——に拡散させた仕方にも求められることは特筆に値する。Nile Greenや他の研究者が述べてきたように、スーフィズムの多様なあり方というのは、植民地期以前のマグリブからマレー世界に至るムスリム社会の何処にでも見られる特徴であった[10]。しかし、18世紀後半から19世紀初頭にかけては、スーフィズムがイスラーム社会における道徳的・知的退廃の象徴であるとして、敵対関係にあるムスリム集団によって非難されるという現象が見られるようになる。このことは、ムハンマド・イクバール(Muḥammad Iqbāl, d 1938)のような近代思想家たちの諸作品において顕著である。イクバールは、スーフィズムの諸側面に批判的であったのみならず、イブン・アラビーやハーフェズ流の神秘主義にも反対していた[11]。そこで、ターナヴィーの形而上学的人間論を彼の『叡智の台座』や『詩集』に対する注釈書から分析することで、20世紀初頭の南アジアにおけるスーフィズム史の解明に光を当てることができると考える。以下では、始めにMargrit PernauやBrannon Ingramの近年の研究における理論的洞察を援用する形で、ターナヴィーの著作群の大まかな輪郭を描写・文脈化していく。本稿の後半では、ターナヴィーの形而上学的人間論の分析に進むが、その前に彼の自己概念について論じておきたい。この議論は、ターナヴィーの形而上学的人間論の中核である完全人間(al-insān al-kāmil)について考察するためには必須のプロセスである。ちなみに、この「形而上学的人間論(metaphysical anthropology)」とは、「人間であることは何を意味するのか?」という問いに関わる人間の道徳的・精神的側面を考慮に入れた、人間の本性に関する形而上学的視座を指す。周知の通り、スーフィー著述家たちは完全人間論を通じてこのような問いにしばしば答えようとする。彼らは特に人間の形而上学的起源や、神とその自己顕現との関連において人間が如何なる存在であるかということ、そして人間の神への実存的回帰あるいは霊的上昇をも扱ってきた[12]。

2. コンテクストの設定(pp. 220-26)

 ターナヴィーの重要性は、学者(‘ālim)あるいはスーフィーとしての名声のみならず、デーオバンド派の運動それ自体の形成・発展において彼が果たした役割にもある[13]。彼は初期デーオバンド派の唱導者として、スーフィー的な敬虔さに対するデーオバンド派の求心性を強化することに多大な貢献を果たし、それを先行する著名なスーフィーたちに結び付けた[14]。ターナヴィーの持続的な影響力は、彼の多くの弟子たちに及んでおり、彼らは当時のウラマーの中で中心的な存在となった。ターナヴィーの弟子たちの中でも、特にザファル・アフマド・ウスマーニー(Ẓafar Aḥmad ‘Uthmānī, d. 1974)とムフティー・ムハンマド・シャフィーウ(Muftī Muḥammad Shafī‘, d. 1976)は、20世紀において最も多くの著作を残した有名なデーオバンド派ウラマーに数えられる。ウスマーニーは、かつてターナヴィーが教鞭を執っていたカーンプールのマドラサで学び、その後はターナ・バヴァンのマドラサの教員となっている。しかし、彼は自身の華々しい経歴ゆえに、他の多くの教育機関をも渡り歩いた。彼が自身のキャリアで教鞭を執った教育機関には、マザーヒル・アル=ウルーム学院(Madrasa-yi Maẓāhir al-‘Ulūm)やミャンマーのラングーン(現ヤンゴン)にあるマドラサ、ダッカ大学やアーリーヤ学院(Madrasa-yi ‘Āliyya)、バングラデシュにある他の二つのマドラサが含まれ、彼は最終的に1950年代中頃からスィンド地方のマドラサでも教鞭を執った。ターナヴィーの晩年から死後にかけて、ウスマーニーとシャフィーウは、インド・ムスリムの独立国家建設のための運動を支援することにおいて重要な役割を果たし、分離独立後のパキスタンの政治においても積極的に活動した[15]。ターナヴィーの信奉者や支持者たちは、彼の教説を通じてその遺産を体現・表現し続けてきた。それゆえ、先述のシャフィーウはムハンマド・タイイブ(Qārī Muḥammad Ṭayyib, d. 1983)と共に、南アジアで最も大規模且つ影響力ある二つのデーオバンド派系統のマドラサ——一つはデーオバンドそれ自体にあるダール・アル=ウルーム(Dār al-‘Ulūm)、もう一つはカラチのダール・アル=ウルーム——の総長にそれぞれ就任した[16]。
 ターナヴィーはまた、当時を代表的するスーフィー思想家として、スーフィー形而上学やジェンダー思想、神秘主義心理学、宗派間論争をめぐる言説、宗教・社会改革(iṣlāh)といった多岐にわたる分野で著作を残すことで、植民地的近代に直面した亜大陸ムスリムの公的・私的生活にとって価値ある多様なイスラーム伝統の創出を目指した[17]。学術文献において「近代」を論じることは困難を極めるため、この語や「植民地的近代(colonial modernity)」といった同語源の用語が、どのような意味において現行のコンテクストに適用されるのかを説明すべきであろう[18]。Ingramに従うのであれば、「植民地的近代」という語は、諸々の新たな観念・実践・制度・社会性の総体と見做すことができる。デーオバンド派の運動(やその他のムスリム諸集団)はそれらに抵抗しつつも、それらの内部で発生した事象なのである[19]。しかし、近代とは内的に連関する多くの諸事象をも同時に示唆するため、この語をあたかもデーオバンド派の運動に向けて生じた一つの「事柄」のように理解すべきではない。研究者たちが指摘してきたように、近代というのはグローバル且つ推論上の現象であり、単に一つの場所から他の場所へ移動・拡散していくようなものではない(すなわち、我々が植民地的近代について語る場合、それは単にヨーロッパからインドに拡がっていくようなものではない)[20]。さらに我々が留意すべきは、デーオバンド派の運動それ自体が、植民地主義に遥かに先行するテクストや言説からなる伝統に基づいているという点である。
 とは言え、近代はまた、とりわけ過去よりも現在に重きを置く自省的態度を意味する[21]。Habermasによれば、19世紀のロマン的近代主義は、(過去として認識された)伝統と現在の間の観念的対立を生み出したという。Habermasが強調するように、19世紀以降に支配的となった近代の概念は、「時代の新しさ」という考えであった[22]。また、カナダ人哲学者Charles Taylorによると、西洋文化における「近代」は<文化的>あるいは<非文化的>なものとして理解され得るという[23]。文化的近代は、過去と現在の間の相違が様々な諸文明を超えて適用可能であると考える。対照的に、非文化的近代の方は、前時代から今日に至るまでの変化が、「伝統的」社会の衰退と「近代的」社会の台頭に関わるという考えを前提とする[24]。文学理論研究者Fredric Jamesonが論じた近代の概念も言及に値する。すなわちJamesonにとって、近代は「語りの範疇」であって、哲学的概念ではないという。彼にとっての近代とは、過去それ自体が「明確に定義された時期」として超時代的に台頭すること(すなわち、それ自体に向けた伝統となること)のみならず、当の過去からの訣別の双方を意味する矛盾を孕んだ観念なのである[25]。
 上記で述べた近代の含意に鑑みて、本稿ではIngramの見解に賛同することができよう。すなわち、もし我々が「近代」という語を以て、過去と訣別することで新時代の先駆けになるという自省的態度を念頭に置くのであれば、デーオバンド派の運動を「近代的」と特徴付けることはできない[26]。しかし、このことはデーオバンド派が近代的様式によって形成された最初の集団であったことを否定しない。というのも、イギリスが導入した思想・政策・制度などは同派の存在に多大な影響を及ぼしたからである。
 上記の議論に更なる光を当てるために、この問題を少し異なる角度から論じたMargrit Pernauに目を向ける。Pernauは、植民地期インドにおける近代について語る際、人々がこれを植民地期の経験として理解する場合、それは「新しい」ものであったと述べる[27]。というのも、鉄道・蒸気船・印刷技術から地域に根付いた製糖工場や産業に至る新たなテクノロジーが、徐々に多くの人々の日常生活を形成し始めたからである。新たな知の形態は、社会生活の枠組みを変化させた一方で、新たな関係の形態が家族生活やジェンダー観をも変えてしまった[28]。Pernauによれば、これら諸現象は無作為の変化として認識されてきたかもしれないが、それらを共に支えていたのは、それこそが新時代の到来を告げるものであったという当の行為者たちの解釈であった[29]。確かに、ウルドゥー語・ペルシア語・アラビア語において、時代の「新しさ」を描写するための新たな言い回し(あるいは新たな意味を持つ言葉)の揺籃が見られたのは偶然ではない。Nayā dawr(新世代)やna’ī rawshnī(新たな光=啓蒙)、na’ī taḥdhīb(新たな道徳/礼節)、jadīd(新たな)、tajdīd(革新)、al-‘aṣr al-jadīd(新時代)といった語は徐々に普及した[30]。また、ターナヴィーのようなデーオバンド派の学者たちが自ら「新時代(al-‘aṣr al-jadīd)」という語を用いることで、変わりつつある時代状況を表現しようとしたことも指摘しておく必要がある[31]。しかし、デーオバンド派の運動それ自体は、イギリス(の植民地的近代)が導入した社会的・政治的・技術的・経済的・組織的な諸変化によって形成された一方、このことが近代という語のより語源的な価値付けを否定した訳では決してない[32]。すなわち、もし近代が自らのイスラーム的過去との急進的な訣別を意味していたのであれば、ターナヴィーのようなデーオバンド派の学者たちは、近代を拒絶あるいはそれに反対していただろう[33]。
 こうした事例の一つが、ターナヴィーの『新たな諸疑念についての有益な諸訓戒(al-Intibāhāt al-Mufīda ‘an al-Ishtibāhāt al-Jadīda)』(以下『有益な諸訓戒』)という作品に見出され、その中で彼は、近代という新時代の特徴が宗教の様々な教義に関して「新たに生じた諸疑念」であると説明する[34]。ターナヴィーはさらに、自身が様々な方面から現れてくる諸困難に対処せねばならないという義務感を抱いていたことを我々に伝える。主たる問題は、人々が新たな科学的知見を踏まえつつ、近代科学の世界観と調和する仕方でイスラームの教義への信仰やその実践を変えていくにはどうすべきか、という点に関わる。さらに、彼はこうした疑念や原理が近代科学や西欧から生じたものと見做す。『有益な諸訓戒』の残りの部分においては、こうした疑念に対する反論が詳細に展開されており、これらの疑念が宗教の根幹に関わる脅威と見做されている。他の箇所でターナヴィーは、過去の迷信や諸々の「慣習」への盲目的追従を、当時(=新時代)の特徴であると批判している[35]。それからターナヴィーは、イギリスの政策の影響によって、ムスリムの長きにわたる規範的な宗教実践が、広範囲にわたって破壊された点にも言及する。彼はその要因を、一方ではムスリムの宗教性の衰退に、他方ではイギリスが導入し、西洋教育を受けたムスリムが採用した反宗教的な植民地的近代の侵攻に求める[36]。それゆえ、ターナヴィーにとって、「新時代」という概念が植民地期の経験やその当時の逆境と不可避に結び付いていることは明らかである。植民地主義は、南アジア・ムスリムの政治的・社会的生活に変化を及ぼしたのみならず、歴史・解釈学・権威・知識・聖典・人間の自己などに対する新しい見方といった認識論的パラダイムにも大きな変化をもたらしたことには疑いの余地がない[37]。

2-1. シャリーアの形而上学的観念(pp. 226-30)

 Pernauがさらに説明するように、植民地主義は一つの参照枠組みを提供したが、その中では新時代(=近代)に関連した様々な新しい諸課題との出会いがあったはずである[38]。しかし、この点はデーオバンド派の言説や行為の全てが植民地主義と近代のいずれかに還元されるということを意味しない。というのも、イスラーム改革の潮流(すなわち、異端と見做される慣習・実践・教義に関するムスリムの内部対立)は、植民地的近代の到来以前から続いていたからである。その事例の一つとして、18世紀のスーフィー思想家シャー・ワリーウッラー(Shāh Walī Allāh, d. 1176/1762)を挙げることができる。デーオバンド派の学者たちはワリーウッラーに特別な敬意を抱いており、彼の父が創設したラヒーミーヤ学院(Madrasa Raḥīmiyya)の構想は、デーオバンド派それ自体の確立に決定的役割を果たした[39]。例えば、スーフィーと法学者の間には、植民地主義の到来以前から長きにわたる対立関係が存在していたが、ワリーウッラーは、このようにスーフィズムと法学の間に存在する対立がどこか見当違いであると考えていた。それゆえ、ワリーウッラーはシャリーアの外面と内面の双方を包含するような革新的定義を示すことで、スーフィズム[40]とシャリーアの間の過度な対立を解消しようとした[41]——

シャリーアの経綸(tadbīr-i sharī‘at)は二つの方向に発展していく。第一は、善行(a‘māl-i burr)や大罪に繋がる悪行の廃止(tark-i a‘māl-i ithm bā-kabā’ir)、真の共同体の指標確立といったものを通じた改革(iṣlāḥ)の成就に関わる。これら三つのために、諸々の規則や規範が設けられ、シャリーアに従う人々(mukallifīn)の全員がそれらに従うはずである。これはシャリーアの外面(ẓāhir-i shar‘)に相当し、またの名を「イスラーム」と言う。第二は、様々な段階にある自己の浄化(tahdhīb-i nufūs)であり、それは四つの美徳の真実や、そうした善の対象を通じた光に至ること、罪の外面の回避(kaf-i ṣūr-i ithm)からその本質の根絶へと進むこと、さらにそうした罪の禁止などによって達成される。これはシャリーアの内面(bāṭin-i shar‘)と呼ばれ、またの名を「イフサーン(iḥsān, 霊的完成)」[42]と言う[43]。

 上記の引用文で注目すべきは、ワリーウッラーが法学的な事柄に関連するものとしてのシャリーアという一般的定義に従っていないという点である。イスラーム思想において、「シャリーア」は非常に複雑な用語であるものの、一般的にスーフィズムや神秘主義の伝統がその一翼を担うことはない[44]。シャリーアはイスラーム法学(fiqh)やイスラーム法源学(uṣūl al-fiqh)、あるいは所謂イスラーム法などとしばしば混同されるが、実際のところ、それはクルアーンやハディースといったイスラームの諸聖典に基づく預言者的「枠組み」であり、ムスリムたちの生活における事柄の全てを規制しようとする。それゆえ、シャリーアはイスラーム法学によってのみ導き出される一枚岩の構造でも厳格な規範体系でもない[45]。ワリーウッラーの解釈では、シャリーアは包括的な枠組みであり、その内面がスーフィズムと見做される(つまり、スーフィズムはイスラームにとって不可欠であると考えられている)[46]。
 イスラームにおける法学と神秘主義の伝統が調和するようなシャリーアの定義は特筆に値する一方、ターナヴィーは自らの著作『有益な諸訓戒』において、それをさらに拡大させ、形而上学や哲学をも自らのシャリーア概念に組み込む——

シャリーアの射程が及ぶ議論の主題は、第一に形而上学(‘ilm al-ilāhiyya)である。そこから派生する学問の一つが信条の学(‘ilm al-‘aqā’id)であり、そこでは啓示(waḥy)や 預言者性(nubuwwa)、復活の諸状態(aḥwāl-i ma‘ād)などが扱われる。第二の主題は実践哲学(al-ḥikma al-‘amaliyya)であり、それはシャリーアから派生し、a)崇拝儀礼 (‘ibādāt)、b)人間相互の行為規定(mu‘āmalāt)、c)社会生活(mu‘āshara)、d)道徳(akhlāq)に関する諸規則へと細分化していく[47]。

 上述のシャリーア概念は、恐らくターナヴィー以外の著作では見られない[48]。シャリーアに関するこのような議論は、先述した『有益な諸訓戒』のコンテクストにおいて持ち出されたことから、ターナヴィーはイスラーム思想史における神学者たち(mutakallimūn)と哲学者たち(falāsifa)の間の根深い対立や、アブー・ハーミド・ガザーリー(Abū Ḥāmid al-Ghazālī, d. 505/1111)による哲学者批判以降の哲学(falsafa)の係争的地位を念頭に置いていたと思われる[49]。ターナヴィーが哲学者たちに共感していたか否かは不明であるが、形而上学や哲学を自身のシャリーア概念に組み込むという彼の解釈学上の変化が、イスラームにおける哲学の係争的地位の正当化・正常化を意味することは間違いなく、これはワリーウッラーがスーフィズムに関して採った戦略と共通する。すなわち、多くのデーオバンド派の学者たちがスーフィズムの教説は大衆の倫理的な自己改革をもたらすと考えたのと同じように、ターナヴィーは哲学の教義にも同様のことが当て嵌まり、それが西洋科学の世界観への対抗手段になり得ると恐らく考えていた。この点に関する具体例に移る前に、先ずはターナヴィーのシャリーア概念をさらに明らかにしたい。ターナヴィーはイスラーム哲学における「諸学問の分類」[50]の図式を用いつつ、(自然科学や数学を除く)哲学の様々な諸分野の全てが、神に対する人間の義務や宇宙における他の諸生物に関わると主張する。そうすることで、彼はシャリーアに関する自らの構想をさらに正当化する。それゆえ、彼にとって哲学の諸分野はシャリーアの一部なのである——

そこで、我々に唯一残されているのは理論哲学(al-ḥikma al-naẓariyya)である。それは形而上学と実践哲学の諸分野の全てである。それら全ては上述した目標への到達に関わるため、シャリーア[の構成要素]ということになる[51]。

 上記のような仕方でシャリーアを説明した後、ターナヴィーは近代科学の根幹をなす物質主義の分析に焦点を移す。例えば、ターナヴィーは「質量の一時性」に関する大部な記述の中で、物質の根本は「質量」に対峙する「形相」であるというアリストテレス哲学の教義を持ち出す[52]。すなわち、一つ一つの実体は「質量」と「形相」からなる複合体であるが、その実体が<何であるか>を決定するのは「形相」の方であるということだ。このような主張に込められたターナヴィーの意図は、物質主義的な世界観の矛盾を暴くことであり、彼はこれを新時代の観念にも結び付ける。ターナヴィーは次のように記す——

今、我々が古代哲学(=ギリシア哲学)に目を向け、質量(mādda)が数種類の形相(ṣūra)を有すると仮定する視座を採用するのであれば、如何なる物質的形相(ṣūrat-i jismiyya)も種的形相(ṣūrat-i naw‘iyya)なしには存在し得ないし、如何なる種的形相も個的形相(ṣūrat-i shakhṣiyya)なしには存在し得ないということになる。したがって、質量のうちに数種の形相を認める場合、同じようにその個的形相を[質量のうちに]認めることは避けられない。…<ある実体の個性は、その個的形相に基づく>。一つの実体に二つの個的形相が存在するのであれば、それは実体が一つではなく、二つ存在するということを意味する。それゆえ、一つの個的実体は同時に二つの別々の実体でもあるという考えに至るが、これは極めて不合理である[53]。

 上記のようなターナヴィーの議論は、彼の自己概念にも影響を与えている(次節を参照)。すなわち、ターナヴィーによれば、個物は自らの形相が有する「永遠性」によって特徴付けられ、以下に見るように、それは最も統合的な神名たる「アッラー(Allāh)」の「形相」に他ならない[54]。
 ターナヴィーはまた、聖典クルアーンと近代科学の知見を調和させようとするムスリムたちの問題点をも取り上げる。ターナヴィーの考えでは、彼らのそうした姿勢は非常に恥ずべきものであるという——

というのも、もし我々が聖クルアーンを科学的知見に基づいて解釈するのであれば、ヨーロッパの学者たち(muḥaqqiqān-i yūrap)は、クルアーンが何年も前に啓示されたにも拘らず、預言者ムハンマド自身を含むムスリムたちの誰もそれを理解すらしてこなかったという点や、ムスリムたちが自らの聖典の正しい解釈(tafsīr)を可能にしてきた西洋に感謝すべきであるという点を、我々に指摘しないのだろうか?[55]

3. 完全人間としての自己——ターナヴィーの形而上学的人間論(Ⅰ)(pp. 230-36)

 前節では、ターナヴィーの社会的・思想的コンテクストや一連の著作群について説明することで、彼が哲学やスーフィズム、神学といったイスラーム諸学に通暁していたことを示した。本節以降では、『叡智の台座』や『詩集』に対するターナヴィーの注釈書から、彼の形而上学的人間論を分析していくが、先ずは彼の自己概念について論じる。
 現代の研究者たちの言説において、「自己(self)」という語は様々な意味を想起させるため、「イスラームの文脈において『自己』という語はどのように用いられるべきか?」や「自己について論じる際に取り除くべき曖昧さとは何か」といった問いを最初に扱わなければならない[56]。イスラームの文脈において、自己を意味する唯一の単語は存在しないが、「ナフス(nafs)」や「ダート(dhāt)」、「フウィーヤ(huwiyya)」、「アナーイーヤ(anā’iyya)」、そして「アナーニーヤ(anāniyya)」といった語がそれに該当する。概して言えば、これらの語は人間の意識(あるいは人間の自己)・神・宇宙という三者間の関係性に指し示す。アラビア語における「ナフス」の語は、魂や自己、精神、心、欲望、欲求などを意味する。しかしながら、この語は再帰代名詞としての意味も持っており、「自分自身(nafsī)」や「彼自身によって(bi-nafsihi)」といった意味にも用いられる。ここで重要なのは、神秘主義や哲学に関するテクストにおいて、通常この語は自己あるいは魂のいずれかを意味するという点である。スーフィズムにおいて、自己性(selfhood)とは、究極的には定義不可能且つ不可知の事象と見做されている(すなわち、この語は陽否陰述的な言説に関わる)[57]。しかし、自己という語の意味の基盤は、自己の高位の性質と低位の性質という観点における、それ自体のうちの倫理的な「分断」に関わっている——より高位の性質を持つ自己は完全なる平穏状態にあり、一方の低位の性質を持つ自己は否定的な思考や感情の状態にある。自己性は認識・獲得されると考えることもまた有益である。すなわち、自己(=探求される自己)というのは、我々が自動的にそうなるものではなく、むしろ我々が目指さなければならないものである。それゆえ、(認識されるものとしての)自己を科学的・社会的要素の観点から描写することは可能であるが、それと同時に、自己を私たちが目指すべき未達成の理想(=獲得される自己)として定式化することもまた可能である[58]。
 ターナヴィーにとって、「ナフス」や「フード(khūd)」、「ヒーシュタン(khwīshtan)」といったペルシア語やウルドゥー語の同義語は「自己」を意味し、これらの語は、1)人間本性の内的真実、2)完全人間(al-insān al-kāmil)という理想を実現するための「探求」のいずれかの意味で用いられる。彼の見解では、「ナフス」やその合成語は、悪を誘発する脆弱な自己や完全に平静な自己といった、自己の内面的・精神的な状態を指し示す。こうした理解の主たる動機は、クルアーンにおける自己概念であると思われる。クルアーンの世界観における自己は、悪を誘発する脆弱な自己(nafs al-ammāra)、非難する自己(nafs al-lawwāma)、霊感を得た自己(nafs al-mulhama)、平静な自己(nafs al-muṭma’inna)といったような段階を経て発展していく。したがって、例えば、ターナヴィーは自身のクルアーン注釈書『最も高貴なる解釈集(Ashraf al-Tafāsīr)』において、自己(ナフス)は根本的に相反する二つの可能性によって特徴付けられ、その二つとは悪を誘発する(al-ammāra bi’l-sū’)傾向と善を推奨する(al-ammāra bi’l-khayr)傾向であると述べる[59]。すなわち、人間本性には善悪双方の種が生来的な可能性として含まれるということになる。しかし、ターナヴィー曰く、人間は(預言者や聖者を例外として)その現世快楽主義のため、悪によって自らの本性が支配されてしまう。彼は、人間のこのような性質が、欲深さや自惚れ、高慢さ、そして憎しみといったあらゆる否定的な人間性の根源にあると述べる[60]。ゆえに、低次の自己である「ナフス・アンマーラ」は感覚によって支配され、自らの出来心や欲望に従ってしまう。こうした自己には精神的規律が不可欠であり、それによって高次の自己である「ナフス・ムトマインナ」を獲得することが求められる。ターナヴィーは、ルーミー(Jalāl al-Dīn Rūmī, d. 672/1273)の『精神的マスナヴィー(Mathnawī-yi Ma‘nawī)』に言及することで、クルアーンで言われる自己の「平静状態」(=「ナフス・ムトマインナ」)が人間存在の原初的・内面的状態であり、最終的に探求されるべき目標であると主張する[61]。ターナヴィーは、クシャイリー(al-Qushayrī, d. 466/1074)やガザーリーといった古典期のスーフィーらの著作に言及することもあるが、彼の自己概念の大まかな輪郭は、イブン・アラビーの宇宙論やルーミーとハーフェズの愛の形而上学によって形成されている[62]。
 ここからは、上記の見解に基づいて、「完全人間」[63]によって範型化されるターナヴィーの自己概念を分析していく。「完全人間」論は「小宇宙」という古の観念との類似を生むものの、前者の方が後者より遥かに包括的且つ多種多様である[64]。ターナヴィーは、小宇宙と大宇宙のアナロジーから人間本性を説明することから、完全人間に関する議論を始めている[65]。それから彼は、完全人間が至高なる神の名(=アッラー)の顕現の源泉であるというスーフィズムの思想を確証していく。こうした点において、完全人間はあらゆる神名や神の属性を統合的な仕方で反映することができる。ターナヴィーは次のように記す——

天使たち(malā'ika)は宇宙の形相を司る諸器官(quwā)のようであるが、アーダムは当の宇宙全体にとっての精神のようである。そのため、彼はスーフィズムの用語で「偉大なる人間/大宇宙(insān-i kabīr)」と呼ばれる(同じような仕方で、人間は小宇宙(‘ālam-i ṣaghīr)と呼ばれる)。それゆえ、天使たちは感覚や精神の諸器官のようであるが、人間はそれらを自らの構造のうちに備えている[66]。

 イブン・アラビー学派によって確立された基本的な解釈枠組みによれば、アーダムあるいは完全人間の原型は、「アッラー」という全てを包括する神名の似姿として創造されたという点で、(全世界に関係する)大宇宙と(人間存在に関係する)小宇宙という双方の実在の統合者である[67]。それゆえ、宇宙全体は無数に存在する種や実体を通じて、あらゆる神名と神性(あるいは、他のあらゆる神名を統合する名としての「アッラー」)を反映するが、個々の実体や事物は、各々に与えられた神名に特有の在り方のみを反映することしかできない。言い換えれば、水晶のような特定の実体はそれを顕現させる原因、すなわち自らに与えられた特定の神名のみを通じて、自らの完全性を反映するということになる。似たような仕方で、天使たちは人間が有する様々な諸器官と類似している。例えば、何かを見る場合の視力のように、それぞれの感覚器官は特定の機能においてのみ完全であるという点で、それは自らの「条件付き」の完全性を体現すると共に、現実の特定の一側面を完全に知ることができる。したがって、ここで強調しておきたいのは、天使たちは各々が果たすとされる役割に関しては完全であるものの、宇宙と同じように神の名と属性の特定の組合せを反映するに過ぎないがゆえに、無限なる神の諸側面を全て知ることはできないという点である。対照的に、人間は全てを統合する名(ism-i jāmi‘)、すなわち「アッラー」という神名の顕現の源泉である。但し、注記しておきたいのは、単なる人間は<可能態>にある神名の源泉である一方、完全人間の方は<現実態>にある神名を反映する唯一の存在であるという点だ——

宇宙(‘ālam)は諸々の神名の顕現の場(maẓhar)である一方、人間は「アッラー」という全てを統合する神名(ism-i jāmi‘)の顕現の場である[68]。

 すなわち、人間は宇宙に見出される神の名と属性の全てを統合する存在なのである。人間に見出されるものは何であれ、宇宙にも見出される。しかし、重要な点は、神が宇宙に対しては自らの名と属性を分節した形で(tafṣīl)顕現させる——すなわち、各々の実体が与えられた神の属性に応じて区別される——一方、人間の場合、神の顕現は無分節且つ統一された対象の形をとり、それはすなわち、神の名と属性の存在の「様態」が、宇宙の場合のように区別されていないということである。ターナヴィーは述べる——

諸々の神名の形相(asmā’-yi ṣuwar-i ilāhiyya)、すなわち宇宙における諸々の存在者(mawjūdāt-i ‘ālam)は、互いに区別されたままであるが、人間にはそれらの全てが顕現する。当の顕現(ẓuhūr)は[神の]似姿(ṣūrat)と呼ばれるがゆえに、宇宙における諸々の存在者もまた、絶対者たる神(ilāh-i ḥaqq)の顕現である。それゆえ、それらは神の似姿(ṣuwar-i ilāhiyya)と呼ばれる。人間は自らの統合者たる存在(wujūd-i jāmi‘)ゆえに、包括性と統合性の段階(iḥāṭa wa jam‘iyyat kā rutba)に至ることができる[69]。

 ここで重要な主張は、人間は他のあらゆる神名を統合する至高なる名(=アッラー)の最も統合的な実在の受容能力を有するがゆえに、統合的な仕方で神を<知る>ことができるということだ[70]。したがって、ターナヴィーの形而上学的人間論において、完全人間は創造の究極目標ということになる。次節では、この点について詳しく見ていきたい。

4. 創造の究極目標としての完全人間(Ⅱ)(pp. 236-38)

 有名なスーフィーの教義によれば、完全人間は神の創造あるいは顕現の究極目標である[71]。スーフィーたちは、「なぜ神は世界を創造したのか」という問いに対して、神が完全人間のために宇宙を存在せしめたからだと答える。この点に関して、ターナヴィーは次のように述べる——

絶対者(al-ḥaqq)は、自身の統合的な本質(dhāt-i jāmi‘)の最も優美なる完全性(kamālāt-i ḥusnā)を、[人間という]統合的な存在(wujūd-i jāmi‘)のうちに目撃することを望んだ。それゆえ、アーダムは最も統合的な属性(ṣifat-i jām‘iyyat)と共に創造させられた[72]。

 すなわち、神は統合的な存在である完全人間を顕現させることによって、自らの完全性を完全人間という鏡のうちに目撃しようとしたのである[73]。それゆえ、アーダムはアッラーという神名の<似姿>に創造させられた。これは、先述の天使たちが自らに与えられた神名の特定の形相として創造させられたのとは対照的である。ここで問われるべきは、神はなぜ自らの本質に完全性(kamāl)をすでに備えているにも拘らず、他の存在のうちに自らを目撃しようとしたのかという点である。完全人間の創造以前に、神は自らの完全性をすでに「目撃」していなかったのだろうか。この点に関して、ターナヴィーは次のように述べる——

最も統合的な存在者(=完全人間)の顕現以前に、絶対者は自らの本質あるいは名を目撃したのか、それとも絶対者はそれらの目撃(mushāhid)のためにそれを必要としたのだろうか、という疑問が生じる[74]。

 それからターナヴィーは、こうした特異な疑問に対して次のように応答する——

ある事物(shay’)が自らの本質を、宇宙における諸々の痕跡や支配(āthār wa aḥkām)のうちにある自らの本質を通じて見ることは、[その事物が]自らの本質を他の物事(amr)を通じて見るのとは異なる。後者は鏡(ā’īna)を通じて[自らの本質を見るようなものである]。すなわち、如何なる媒介(wāsiṭa)もなしに自らの本質を見るのであれ、何かの媒介を通じて見るのであれ、それらは宇宙における諸実在の様々な側面からしてみれば、本質的に同じ事態ではない[75]。

 すなわち、完全人間の創造以前に、神が自らの名と属性を目撃したとしても、それは外在する形相を通じてではなく、自らの本質を通じて目撃したに過ぎない。自らを自らのうちに目撃するという行為は、他の存在のうちに自らを目撃する行為とは異なり、この場合の「他の存在」は自らを映す鏡のようなものと言えよう。前者、すなわち自らのうちに自らを目撃する場合、目撃行為は如何なる媒介(wāsiṭa)もなしに行われるが、後者の場合、目撃行為は、「媒介」としての完全人間の実在を通じて実体化する[76]。さらに言えば、如何なる事物も神の外部には存在し得ないという意味において、[完全人間という媒介を通じた]目撃行為は、未だ神的本質の内部に留まっているが、それは神的本質が当の外的実在のうちに顕現したという意味で、外界への投影なのである。したがって、完全人間とは神の本質がそれ自体を顕現させる場としての鏡に他ならない。ターナヴィーは次のように述べる——

自らの本質(dhāt)とその顕現群(maẓhariyyat)という双方の点において、顕現の場(maẓhar)がその創造(khalq)以前から存在し、顕現の場を通じて目撃(mushāhada)されていたとすれば、なぜ神はそれを創造したのか?その答えは、当の顕現の場が神の知のうちに現前していた(ḥuḍūr-i ‘ilmī)のに対し、今現在は外的実体として現前している(ḥuḍūr-i ‘aynī)からである。どちらの場合も互いに異なる事態であるが、神の開示(inkishāf)という点から見れば、どちらも同じ事態ではある[77]。

 さらに、神的自己(=神の本質)が自らを通じて自らを知る時、その自己知の様態は無分節(ijmāl)である。但し、神的自己が完全人間という鏡を通じて自らを知る時、その自己知は互いに分節され、そこには神のあらゆる名と属性がはっきりと反映される。ターナヴィーは先に提示した問いをさらに拡げ、神の本質の本性に他ならない「神的無限性」が、そこに内包される様々な可能性を顕現させるために完全人間を必要とすることを確証している[78]。
 別の視点から見てみると、神が宇宙を創造した時、それは粗野な鏡のようであり、精神を持っていなかった。そして、宇宙が未だ粗野な鏡であったため、そこに投影された神の名と属性の形相は、明瞭に目撃され得なかった。それゆえ、神は完全人間を創造したが、自らの完全性を体現する完全人間は、まさに磨き上げられた鏡(‘ayn-i jalā’)であり、こうした形相の精神(rūḥ tilka’l-ṣūrā)でもある[79]。顕現の場(maḥall)が創造され、その中に神の精神を受容するよう運命付けられるということは、神的命令(amr-i ilāhī)の喫緊性を表す。それゆえ、宇宙はその顕現の完成に向けて一つの命令/実体(amr)を必要としたのであり、それが完全人間であった[80]。

5. 自己の完成としての完全人間(Ⅲ)(pp. 238-44)

 完全人間論には三つの基本的様態、つまり1)個人的、2)宇宙的、3)超宇宙的、の三つがある[81]。個人の自己は、アッラーという名の上に創造されたがゆえに、神のあらゆる名と属性の完全性を<潜在的に>内包する。しかし、完全人間のような優れた位階に到達する者は、預言者や偉大な聖者を除いては稀である[82]。宇宙的次元に関しては、全ての個人の自己は宇宙の諸実在を映し出すがゆえに、大宇宙の鏡である。最後の超宇宙的な実在に関しては、全ての自己が潜在的には完全人間であるという事実ゆえに、それは神的本質から地上の次元に至る様々な諸実在の段階を全て包摂する[83]。完全人間の超宇宙的役割は、如何にして一から多が生じたのかという哲学的難問に答えることである——その一とは、最も統合的で未だ存在化せず、且つ創造される以前の実在であり、それを通じてあらゆる被造物が顕れる。神は「在れ(kun)」という創造の命令を下したが、こうした存在化作用を通じて生じるものは、他のあらゆる実在を包摂する完全人間の実在である。それゆえ、完全人間は、創造以前であり非永遠的、且つ半ば不可解である存在論的な中間状態にある全ての事物を包含するという点で、神の最も大いなる徴である。それはまるで太陽の最初の煌めきのようであり、それは光線や太陽ではないが、そこから全ての太陽光が放射される。完全人間は神の似姿であり、それによって小宇宙と大宇宙の双方は自らの形相を纏う。完全人間はまた、なぜ小宇宙と大宇宙が関連しているのかということをも説明しているが、それは双方の宇宙が完全人間を通じて各々の形相を纏うからである[84]。それゆえ、完全人間は最高位の実在(=神的本質)の境界に達することができるという点で、宇宙をも超越するのである。ターナヴィーは次のように述べる——

神的統合性(jam‘iyyat-i ilāhiyya)は人間の特別な完全性(kamāl-i khāṣṣ)に関連し、そこには如何なる理性や思考によっても到達できず、神秘直観(kashf-i ilāhī)によってのみ可能である。…この統合的な存在者(mawjūd-i jāmi‘)は人間(insān)、あるいは代理人(khalīfa)と呼ばれるが、その所以は人間の「普遍的地位(nash’a-yi ‘āmm)」、すなわち普遍性にある。これはつまり、神や被造物の諸実在(ḥaqā’iq-i ilāhiyya u kawniyya)が、人間的地位(nash’a-yi insāniyya)の特別性に属しているということである。また、[当の人間的地位は]他のあらゆる実在とも関係しているために、その者は人間と名付けられる。…絶対者(神)が自らの被造物を目撃するのは、その者を通じてなのである[85]

 ターナヴィーにとって、人間の自己に帰される完全人間の「統合性」が、神秘直観(kashf)を通じてのみ獲得され、如何なる論理的分析の形式によってもなされないことは明らかである。彼はまた、人間がなぜ人間と呼ばれるのかという問いにも答えており、彼によれば、それは人間が「普遍的地位(nash’a-yi ‘āmm)」を有するからであるという[86]。神的諸実在は宇宙のうちに顕現したため、こうした普遍的地位はそれら全てを内包する。そして、人間が宇宙におけるあらゆる存在者と関係を持つのも、自らの普遍的地位を通じてなのである。さらに、ターナヴィーは完全人間の神学的意義にも言及するが、彼曰く、神は完全人間を通じて自らの被造物を目撃する。この点が何を意味するのかを十分に説明する前に、なぜ人間が「代理人(khalīfa)」と呼ばれるのかを詳述するのが有効であろう[87]——

完全人間は、自分以外の被造物の守護者(ḥāfiẓ)として振る舞うがゆえに、神の代理人(khalīfa)と呼ばれる。それはまるで自らの宝を守る王のようである。被造物の守護者という神の属性は人間に継承され、その人間は自然(すなわち宇宙)を保護する。完全人間が存在する限り、この世界(dunyā)は保護され続けるのである[88]。

 ターナヴィーは、人間が自然(=神以外のあらゆる被造物)との関連において、守護者としての機能を有すると主張する。人間は宇宙の守護者としての責務を与えられた、地上における神の代理人なのである。これは、自然の秩序を守り、宇宙における均衡を維持することが人間の義務であることを示している[89]。それは、人間という存在が<あたかも>地上の王としての神の役割を、その神の不在時に果たすことになっているかのようである。というのも、代理人は自らが表象する人間の属性群を有していなければならず、そうでなければ、当人は不完全な代理人になってしまうからである。それゆえ、ターナヴィーは、世界は完全人間が存在する限り護持され続けると主張する[90]。言うまでもなく、完全人間の様態の一つである人間の自己の宇宙的次元が考慮される場合においてのみ、完全人間が自然の守護者であるという主張は理解可能となる。
 先述のように、完全人間は神の創造の最終原因(telos)である。宇宙創造の目的は完全人間によって達成されるが、それは完全人間が神の「眼」となるり、それを通じて神が自らの被造物を目撃するからである[91]。それゆえ、完全人間論の意義が十全に明らかとなるのは、それがスーフィズムの霊的体系の中に確立された時である。個々の自己と完全人間の関係性が最も明瞭になるもの、こうした文脈においてである。すなわち、通常の人間的経験という観点からは、完全人間の宇宙的次元と超宇宙的次元は、実践的意義を欠いたあまりにも非現実的な理想のように見えるかもしれないということである。しかし、このことがまさに、ターナヴィーのようなスーフィー導師たちが否定する点である。というのも、彼らにおいては、霊的生活における完全人間論の重要性を我々が理解した時、スーフィズムの霊的哲学も完全に理解されると考えられているからだ[92]。したがって、全ての霊的修行者(sālik)にとっての目標は、自我滅却(fanā)という神秘体験を通じて、自らの「個性」あるいは条件付きの自己(nafs)を乗り越えることである。そうすることで、[自我滅却のような]絶頂の瞬間がごく稀に訪れた時、神的自己は、今や空洞となった修行者の自己という磨き上げられた鏡の中に自らの像を映し出すことができる[93]。修行者個人が神の「眼」となり、神がそれによって自らの被造物を目撃するようになるのも、まさにその瞬間、すなわち当人の自己が神的自己によって超越される時である。それゆえ、ターナヴィーは「ファナー」という最高潮の経験に導く霊的生活の様態の解明に、多くの紙幅を割いている。
 ハーフィズの『詩集』に対する大部な注釈書である『ハーフェズの霊知(‘Irfān-i Ḥāfiẓ)』において、ターナヴィーはそれぞれの詩句に潜在する比喩を明らかにしている[94]。例えば、ターナヴィーは第一句の「酌人(sāqī)」が「真に愛される者(maḥbūb-i ḥaqīqī)」を意味し、それが神あるいは霊的導師あると主張する。また、同じ箇所の「ワイングラス(ka’s)」は、「愛の情動(jadhb-i ‘ishq)」を意味するという[95]。要するに、この詩句は「我が愛されし者よ、私を汝の愛で酔わせてくれ」と言っているのである[96]。それからターナヴィーは、第二半句の「イシュク(‘ishq)」が「愛の道(rāh-i ‘ishq)」、すなわちスーフィズムにおける霊的修行道(sulūk)を意味すると述べる[97]。ターナヴィーの説明によれば、霊的修行道はその困難が予測不可能であるため、最初は容易に見えるという。しかし、旅の初心者はその道を進んでいくにつれ、外面的にも内面的にも様々な困難や誘惑に直面するようになる。この詩句は全体として、誘惑がない旅路は、旅の終盤で合一に達するには不十分であることを伝えている。ターナヴィーは最初の数句に対する注釈を続け、霊的修行は様々な階梯(スーフィズムにおける「マカーマート(maqāmāt)」)、すなわち修行者が獲得を目指す内的美徳に関わると述べる。それはまた、シャリーアの教義の完成といった付随的美徳の基盤でもあるという[98]。しかし、ターナヴィーによれば、内的美徳の獲得に関しては、当人の努力だけでは不十分であるという。その者が目標に達するためには、天からの恩寵が必要となる。それゆえ、霊的生活は神的情動(jadhb)によってしばしば特徴付けられるが、その情動は天からの神秘的溢出と神的加護(fayḍ-i ghaybī wa ‘ināyat-i ḥaqq)である[99]。旅の初心者は、霊的修行道の回廊を苦労しつつも進んでいくにつれて、自らのうちに神的情動の不思議な力が充満し始める。最終的にその力は、制限された自己意識を変容させることで、神との合一(uṣūl ilā Allāh)へと至らしめる[100]。ターナヴィーはハーフェズに倣い、こうした自己変容がまさにスーフィー(あるいはデルヴィーシュ)の隠遁(khalwa)[101]を通じて生じると主張する。ターナヴィー曰く、こうした心理状態にある者が経験するのは神的平穏に他ならない。ターナヴィーは、ハーフェズの『詩集』から次の詩を引用する——

楽園の最高位は、デルヴィーシュたちの隠遁(khalwat-i darwīshān)にある。
豊さの物質は、デルヴィーシュたちの奉仕(khidmat)にある…
その閃光によって漆黒の心(qalb-i siyāh)が金色に変わるのは、
デルヴィーシュたちの霊的同伴(ṣuḥbat)に見出される錬金術(kīmiyā)である。
太陽が捧げる高慢さの王冠(tāj-i takabbur)の目の前には、
デルヴィーシュたちの威厳(kibriyā)から生じる誇りがある。
衰退(zawāl)の恐れがない富(dawlat)というのは、
何も誇張ではなく(bī takalluf)、デルヴィーシュたちの富である。
岸辺の至る所は暴虐な軍隊(lashkar-i ẓulm)によって占拠されているが、
太古の昔(azal)より永遠(abad)の時を支配するのはデルヴィーシュたちである。
祈りの時に、王たちが追い求める目的は顕現する
その顕現の場(maẓharish)は、デルヴィーシュたちの表情を映す鏡(ā’īna)である。
ハーフェズよ、ここで礼儀正しくしなさい、というのも、統治権と王国(sulṭānī wa mulk)は、
全てデルヴィーシュたちの現前の隷属(bandagī-yi ḥaḍrat)によるのだから[102]。

 ターナヴィーの注釈によれば、楽園の最高位はスーフィー(=デルヴィーシュ)らの隠遁のうちに見出される[103]。というのも、隠遁はファナーという神秘的境地を獲得する可能性を拓き、それが霊的旅路の頂点をなすからだ[104]。ターナヴィーはハーフェズの見解を認めつつ、霊的旅路においては、デルヴィーシュの奉仕・隷属・霊的同伴といった、漆黒の心(=欲望や恨みに満ちた低次の自己)を金色の心(=平穏と落着きに満ちた完全に静謐な自己)に変容させるような要素が必要であると主張する[105]。
 それゆえ、完全人間論が完成するのは、個人の自己が自らのアイデンティティの「諸々の偶発性」、すなわち遺伝・人間性・性向・能力・運命・職業、所与の場所と時間に生まれたという事実、そして周囲からの影響や経験などによって一般的に形成される個人の意識を克服・超越することができた時である。それは要するに、ある者のアイデンティティや条件付きの自己の構築に関わる社会的・文化的領域を乗り越えた時ということである。スーフィーたちによれば、ファナーの霊的目標は、こうしたあらゆる偶発性を捨て去ることであり、そうすることで、彼らは完全人間に関連する個人の自己の宇宙的次元と超宇宙的次元を実現するための道を歩むようになる。それゆえ、完全人間が如何なる特定の人間の「個性」とも混同され得ないことは明らかである。完全人間はむしろ、霊的修行道を歩むことで様々な度合いに実現され得る人間的地位の中心に位置する、超歴史的・超遺伝的な実在を言い表しているのである。

6. 結論(pp. 244-46)

 本稿では、近代南アジアにおいて最も影響力のあるスーフィー思想家アシュラフ・アリー・ターナヴィーの著作群の分析を通じて、デーオバンド派と古典的スーフィー思想との関係性を論じてきた。少なくとも本稿では、デーオバンド派の学者たち——冒頭で述べたように、彼らは浅はかな原理主義的言説の唱導者からは遠くかけ離れた存在である——が象徴やイマージュのみならず、論証という合理的手段を用いることで、複雑な形而上学的教義を散文と韻文の双方によって定式化するスーフィー形而上学といった、最も洗練されたイスラームの知的潮流の大海に如何にして沈潜してきたのかを明らかにした。しかし、より重要なことに、本稿ではターナヴィーがイクバールなどの同時代人たちの多くとは対照的に、社会変革の潮流においてスーフィズムの教説を如何に保全・擁護・拡散してきたのかを明らかにすることで、彼の南アジア・スーフィズムへの貢献を論じた。
 先述のように、デーオバンド派は近代という語の認識論的意味(例えば、過去との急進的決別など)には反対していたが、イギリスの植民地政策とその実践からは影響を受けていた。それゆえ、ペルシア語がもはや公用語ではなくなり、アラビア語が極少数の者にしか理解されなくなった当時、ターナヴィーのような学者たちはウルドゥー語による出版メディア活用の必要性を感じ始め、そうした風潮は徐々に広がっていった。その意味において、ターナヴィーがイブン・アラビーの『叡智の台座』やハーフェズの『詩集』に対する注釈書をウルドゥー語で著したことも、全く驚くに足らない。しかし、ターナヴィーがこれらの作品を誰に向けて書いたのかという点は問われる必要がある。明らかに、彼はこうしたスーフィズムに関する秘儀的論考が大衆に対しては隠されるべきであると考えていた。なぜなら、イブン・アラビーの遺産は多くの論争を巻き起こしてきたからである[106]。この点が重要である理由は、ターナヴィーが崇拝行為(‘ibādāt)や信条(‘aqīdat)、社会生活(mu‘āsharāt)、人間同士の行為規定(mu‘āmalāt)、そしてスーフィー言行録(malfūẓāt)といったイスラームに関する大衆的作品を多く残すことで、デーオバンド派が言うところの「アワーム(‘awāmm)」に向けて宗教的指針を提供しようとしたからである。但し、ターナヴィーの支持者の一人であるダルヤーバーディー(‘Abd al-Mājid Daryābādī, d. 1977)は、西洋の哲学・心理学の訓練を受けた著名な文筆家であるが、彼は西洋の啓蒙主義的価値への信頼を失った後、ターナヴィーの下にやって来た。Mianが明言するように、ダルヤーバーディーの逸話は、植民地的近代において様々なイデオロギーを探求するムスリム思想家たちによって共有されるところの、数多くの知的関心事の興味深い事例の一つである。そして、こうしたことの核心には、「イスラームの知的伝統のうちにあって、個人的・政治的な危機に直面している人々の助けとなり得るような倫理的・精神的な源泉とは何か?」という問いが存在する[107]。
 上記を踏まえると、ターナヴィーは『叡智の台座』や『詩集』に対する形而上学的な注釈書を残すことで、スーフィズムの古典文献に通じていた同僚の学者たちに加えて、ダルヤーバーディーのような西洋/英語教育を受けたムスリムたちをも読者として想定していたという推論も、あながち的外れではないだろう。例えば、ターナヴィーはダルヤーバーディーが個人的危機に陥っていたことに鑑みて、彼と心理学や愛の形而上学について多くの難解な議論を交わした。そして、ターナヴィーはダルヤーバーディーに対して「愛する者(‘āshiq)」という称号を与えるに至っている[108]。こうした愛についての言説は、ハーフェズの『詩集』それ自体において見られる事柄を大いに想起させるが、それは愛に関する形而上的・霊的な沈思に満ち溢れている。それはまた、スーフィズムの法学的位置付けあるいは論争の的となったスーフィズムの諸実践についてのみ議論してきた他のデーオバンド派の学者たちとは異なり、古典的スーフィー思想へのターナヴィーの造詣の深さが、完全人間論のような最も難解なスーフィズムの教義の解明に導いたことの証左でもある。上記の主張は、イクバールなどターナヴィーの同時代人に目を向けることで、より適切に文脈化され得る。イクバールは、イブン・アラビーとハーフェズ双方の見解を偏りなく融合させた他、ジーリー(‘Abd al-Karīm al-Jīlī, d. c. 832/1428)やビーディル(‘Abd al-Qādir Bīdil, d. 1133/1720)といったスーフィーたちの思想を——文献学的に膨大な間違いを犯しているものの——ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, d. 1831)やベルクソン(Henri-Louis Bergson, d. 1941)の思想を介して解釈している[109]。同様に、イクバールの完全人間論は、その大部分がニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, d. 1900)やダーウィン(Charles Robert Darwin, d. 1882)に依拠しており、スーフィズムは稀に参照される程度である。すなわち、イクバールはスーフィーたちから完全人間の思想を採り入れてはいるが、その解釈は元来のスーフィーたちの教義と僅かな類似性を示すのみである。イクバールは、完全人間が「最も完全な自己、人間性の目標、そして心身的生活の極致」を表し、そこでは「我々の精神生活の不和が解消される」と述べることで、その教義内容を大幅に修正している[110]さらに、イクバールによれば、完全人間は最後に出現するがゆえに、人類の木に実る最後の果実であり、その者が「耐え難い進化の過程における試練」を全て正当化するのだという[111]。こうした解釈が、イブン・アラビーやターナヴィーといった霊的・形而上学的なコンテクストから完全人間を論じる人々にとって、到底理解され得ないものであることは言うまでもない。
 しかし、本稿の目的はターナヴィーを特別扱いしたり、イクバールを酷評したりすることではない。むしろ、注目すべきはイスラーム思想の潮流全体という観点から見たターナヴィーの注釈書の意義である。すなわち、イクバールのような同時代人の多くが、西洋思想とスーフィズムそれぞれに依拠しつつ、(完全人間が最高度の自己性を表すという)伝統的な自己概念を再構築・改革したのに対し、ターナヴィーは、完全人間が自己の個人的・宇宙的・超宇宙的次元を通じて、自身の形而上学的人間論における自己概念を包含すると説くことで、完全人間論というスーフィズムの教義を再興・再確証した。全体として、ターナヴィーの見解では、完全人間は全てを統合する神名である「アッラー」の似姿として造られたがゆえに、大宇宙と小宇宙の双方の統合者である。それゆえ、宇宙全体は神の名と属性の全てを反映するものの、完全人間は神名の全てを自らの存在のうちに統合し得る唯一の存在なのである。


[1] SherAli Tareenが指摘するように、「マドラサフォビア」というグローバルな現象やそれに関連したデーオバンド派に帰される原理主義の汚名は、インドの国境を超えて南アジアの至る所、そしてグローバル・サウスや西欧世界でも共通のものとなっている。実際のところ、ターリバーンの指導者たちの多くはパキスタン北西部にあるデーオバンド派系のマドラサ出身であるが、彼らのうちの少数の者たちの活動によって、デーオバンド派の宗教的・知的伝統の全体を非難するのは不公平であると言わざるを得ない。詳しくは、SherAli Tareen, Defending Muḥammad in Modernity, Notre Dame, IN: University of Notre Dame Press, 2019, p. 386を参照のこと。さらにMuhammad Qasim Zamanは、マドラサ教育を受けた宗教学者たちと、彼らをしばしば見下す西欧教育を受けたムスリムらの信頼度を対照させた上で、次のように考察する——「ウラマーが幅広い層への影響力の行使に成功した要因は、英語を含めた近代的な知の形態との親和性を証明する彼らの能力にあったことは確かである。現代のウラマーは西欧教育の習得やそこからの利益の創出において、近代主義者よりも優れていたと言っても過言ではない。彼らはイスラームの伝統において信頼に足る基盤の構築や、その達成によって得られる宗教的地位の強化において、近代主義者を上回っている」(Muhammad Q. Zaman, Islam in Pakistan: A History, Princeton, NJ: Princeton University Press, 2018, p. 266)。

[2] これらの主題の丹念な分析については、Brannon D. Ingram, Revival from Below: The Deoband Movement and Global Islam, Oakland, CA: University of California Press, 2018; Tareen, Defending Muḥammadなどを参照のこと。

[3] 「神の嘘をつく能力(imkān-i kidhb)」や「もう一人の預言者ムハンマドの創出(imkān-i naẓīr)」といった他の点に関する論争については、例えばTareen, Defending Muḥammad, pp. 26, 28-29, 40, 41, 51, 55, 97-99, 101, 133, 138-142, 154-155, 160, 163, 191, 197, 206-207, 299, 348-349などを参照のこと。

[4] スーフィー形而上学は、スーフィズムを人生の指針として重視することに加え、合理的・超合理的な道具としての知識を用いることで、存在や自己に関する形而上学的教義を表現することを目指す。イスラーム史の最初期から、イスラーム神学(kalām)の教義を拒絶あるいは受容することで、当の潮流に積極的に関わるスーフィーが数多くいた。11世紀以降、スーフィー著述家たちは哲学的概念について論じるのみならず、それらをスーフィズムの言説の中に採り入れた。12世紀以降、「哲学」と「神学」の間の硬い垣根が取り払われることで、スーフィー思想家たちは形而上学と哲学の言説を統合させ、スーフィー的世界観(Sufi Weltanschauung)に関する主要な教説を定式化した。こうした発展の全ては、徐々に新たなディシプリンを生み出すことに繋がり、そこでは哲学的素養を身に付けたスーフィー著述家たちが、イスラーム神学・論理学・哲学の語彙に加え、(限定的ではあるが)論証という合理的手法を一貫して用いることで、散文や韻文の形で複雑な形而上学的教義を体系化しようとした。我々の目的に最も適っているのは、こうしたスーフィズムの新たな言説形態を「スーフィー形而上学(Sufi metaphysics)」と呼ぶことである。詳しくは、Muhammad U. Faruque, “Sufi Metaphysical Literature,” in Alexandre Knysh and Bilal Orfali (ed.), Sufi Literature (Handbook of Sufi Studies), Leiden: Brill, forthcomingを参照のこと。

[5] William ChittickやJames Morrisといった多くの研究者たちが、インド亜大陸を含むイスラーム世界全体におけるイブン・アラビーの影響力について論じている。例えば、James W. Morris, “Ibn ‘Arabī and His Interpreters Ⅱ: Influences and Interpretations,” Journal of the American Oriental Society 106(4), 1986, pp. 733-756; William C. Chittick, “Notes on Ibn al-‘Arabī’s Influence in the Subcontinent,” The Muslim World 82(3-4), 1992, pp. 218-241; idem, “Waḥdat al-Wujūd in India,” Ishraq: Islamic Philosophy Yearbook 3, 2021, pp. 29-40; Michael Chodkiewicz, “The Diffusion of Ibn ‘Arabī’s Doctrine,” Journal of Muhyiddin Ibn ‘Arabi Society 9, 1991, pp. 36-57; Alexandre Knysh, Ibn ‘Arabi in the Later Islamic Tradition: The Making of a Polemical Image in Medieval Islam, Albany: SUNY Press, 1999などを参照のこと。

[6] Shahab Ahmedによれば、ハーフェズの『詩集』は「イスラーム史において最も広範囲にわたって刊行され、流通し、読まれ、記憶され、読誦され、想起され、そして評判になった詩集であり、500年近くの間、イスラーム世界の大部分において、自己認識の理想と自己表現の仕方・機能を構成・範型化する著作と見做されてきた」。詳しくは、Shahab Ahmed, What is Islam?: The Importance of Being Islamic, Princeton, NJ: Princeton University Press, 2016, p. 32を参照のこと。また、15世紀から19世紀後半において、『詩集』はバルカン半島やアナトリア、イラン、中央アジアを経てアフガニスタンや北インド、現在のバングラデシュに至る広範な諸地域において、教育を受けたムスリムたちの言説に多大な文学的プレゼンスを示した。

[7] こうした表現の詳細については、Ahmed, What is Islam?, p. 32を参照のこと。

[8] ターナヴィーの生涯を最も網羅的に扱ったウルドゥー語の伝記として、‘Azīz al-Ḥasan Ghawrī, Ashraf al-Sawāniḥ, Thāna Bhawan: Maktaba-yi Ta’līfāt-i Ashrafiyya, 1984がある。英語で書かれた伝記としては、Muhammad Q. Zaman, Ashraf ‘Ali Thanawi: Islam in Modern South Asia, Oxford: Oneworld, 2008がある。近代思想に関するターナヴィーの著作を概観したものとして、Fuad S. Naeem, “A Traditional Islamic Response to the Rise of Modernism,” in J. E. B. Lumbard (ed.), Islam, Fundamentalism, and the Betrayal of Tradition, Bloomington: World Wisdom Books, 2004, pp. 79-116があり、ターナヴィーのイスラーム復興思想を扱ったものとしては、Fuad S. Naeem, “Sufism and Revivalism in South Asia: Mawlānā Ashraf ‘Alī Thānvī of Deoband and Mawlānā Aḥmad Razā Khān of Bareilly and Their Paradigms of Islamic Revivalism,” The Muslim World 99(3), 2009, pp. 435-451がある。また、『天国の装身具(Bihishtī Zewar)』におけるターナヴィーのエージェンシー概念については、Usman Y. Ansari, “The Pious Self is a Jewel in Itself: Agency and Tradition in the Production of ‘Shariatic Modernity’,” South Asia Research 30(3), 2010, pp. 275-298を参照のこと。ターナヴィーのジェンダー観については、Barbara D. Metcalf, Perfecting Women: Maulana Ashraf ‘Ali Thanawi’s Bihishti Zewar: A Partial Translation with Commentary, Berkeley: University of California Press, 1992, pp. 1-38を参照のこと。デーオバンド派ウラマーとの関連においてターナヴィーの思想一般を扱ったものとしては、Barbara D. Metcalf, Islamic Revival in British India: Deoband 1860-1900, Princeton, NJ: Princeton University Press, 1982, pp. 203-210がある。ターナヴィーの思想をより広い文脈で論じたものとしては、Muhammad Q. Zaman, The Ulama in Contemporary Islam: Custodians of Change, Princeton, NJ: Princeton University Press, 2002, pp. 21-36; Dietrich Reetz, “The Deoband Universe: What Makes a Transcultural and Transnational Educational Movement of Islam?,” Comparative Studies of South Asia, Africa and the Middle East 27(1), 2007, pp. 139-159などがある。

[9] これとの関連で注記しておくべきこととして、ムハンマド・カースィム・ナーノウタヴィー(Muḥammad Qāsim Nānawtvī, d. 1880)やラシード・アフマド・ガンゴーヒー(Rashīd Aḥmad Gangohī, d. 1905)といったデーオバンド派を代表する学者たちは、スーフィズム一般(とりわけその法学上の位置付け)に関する著作を残してはいるが、管見の限りイブン・アラビーやハーフェズの作品に対する注釈書は一つも残していない。ナーノウタヴィーは、『友好の演説(Taqrīr-i Dilpadhīr)』や『シャージャハーンプール論争(Mubāḥathā-yi Shāhjahānpūr)』、『イスラームの明証(Ḥujjat al-Islām)』といった多くの哲学的・神学的論考を残しており、それらにおいて存在(wujūd)や理性(‘aql)の諸様態、自己知などに関する議論を展開している。詳しくは、Muḥammad Qāsim Nānawtvī, Taqrīr-i Dilpazīr, Deoband: Shaykh al-Hind Academy, 1996, p. 50ffを参照のこと。

[10] 例えば、Nile Green, Sufism: A Global History, Malden, UK: Wiley Blackwell, 2012, pp. 159-160を参照のこと。

[11] 例えば、イクバールの『自我の諸神秘(Asrār-i Khūdī)』には次のような詩がある——

   「酒飲みのハーフェズに気を付けよ
   彼の盃は致死量の毒で満たされている
   彼の市場にはワイン以外には何もない
   たったの二杯で彼のターバンは台無しになった
   彼はムスリムであるが、彼の信仰には不信仰者の腰布が巻かれている
   彼の信仰は愛される者の睫毛によって砕かれる
   彼は強さという名に弱さを与える
   彼の楽器は自然を迷妄に導く
   彼の楽器が奏でる音色は衰退の前触れである
   彼が高台にて聴くのは衰退したガブリエルの声である」
(Muḥammad Iqbāl, Mathnawī-yi Asrār-i Khūdī, Muhammad Qasim Zaman (tr.), Lahore: Unison Steam Press, n. d. [1915], pp. 66-72, based on Abu Sayeed Nur-ud-Din, “Attitude towards Sufism,” in Iqbal: Poet Philosopher of Pakistan, Hafeez Malik (ed.), New York: Columbia University Press, 1971, pp. 287-300 (at 294); in Zaman, Islam in Pakistan, p. 198)この詩が初めて刊行された1915年、影響力のある諸集団の中で大きな動乱が生じたため、イクバールは『自我の諸神秘』の再版の際、この詩を削除せざるを得なかった。彼はまた、『ペルシアにおける形而上学の発展(The Development of Metaphysics in Persia)』において、イブン・アラビーや彼の支持者たちの思想に汎神論という侮蔑的レッテルを貼っている。詳しくは、Muhammad Iqbal, The Development of Metaphysics in Persia, London: Luzac, 1908, pp. 59, 60, 65, 68, 91, 94, 114, 120-121, 135-136を参照のこと。イクバールは生涯の後半において、この作品を自ら批判している。但し、『イスラームにおける宗教思想の再構築(The Reconstruction of Religious Thought in Islam)』といった後の作品においては、スーフィズムに関連する汎神論やペルシア文化に関わる魔術論のような、『ペルシアにおける形而上学の発展』に見られる結論の幾つかが再登場している。イクバール自身がこの作品を留保したことについては、B. A. Dar, Anwār-i Iqbāl, Lahore: Iqbāl Academy, 1977, p. 20を参照のこと。イクバールとスーフィズム、及び彼とイブン・アラビーの関係性については、Muhammad S. Umar, “Contours of Ambivalence, Iqbāl and Ibn ‘Arabī: Historical Perspective (in three parts),” Iqbal Review 35(3), 1994, pp. 46-62において鋭い指摘がなされている。

[12] Richard Toddによるクーナウィー(Ṣadr al-Dīn al-Qūnawī, d. 672/1274)の形而上学的人間論に関する優れた研究(Richard Todd, The Sufi Doctrine of Man: Ṣadr al-Dīn al-Qūnawī’s Metaphysical Anthropology, Leiden: Brill, 2014)を参照のこと。また、Charles M. Stangによる偽ディオニュソス研究も、この点においては言及しておく必要があろう。彼の研究においては、「形而上学的人間論」の手法が、キスリスト教の神秘主義哲学との関連で援用されている。詳しくは、Charles M. Stang, Apophasis and Pseudonymity in Dionysius Areopagite: “No Longer I,” Oxford: Oxford University Press, 2012を参照のこと。

[13] スーフィーとしてのターナヴィーの系譜はハーッジー・イムダードゥッラー(Ḥājjī Imdād Allāh Muhājir al-Makkī, d. 1899)という、ナーノウタヴィーやガンゴーヒーといったデーオバンド派の創始者らを指導した人物に遡ることができる。イムダードゥッラーはイスラーム法学の正式な教育を受けていなかったため、彼が残した遺産の評価は定まっていない。また、この点はガンゴーヒーを含む彼の弟子たちの間の不和をも招いた。例えば、イムダードゥッラーの『七つの諸問題の解明(Fayṣala-yi Haft Mas‘ala)』という作品があるが、この作品はムスリムたちの内部対立の激化や、法・神学・宗教実践についての重要な諸問題に応答する形で書かれた。この作品の部分訳や内容分析については、SherAli Tareen, “Faysala-yi Haft Mas’ala (A Resolution to the Seven Controversies): Haji Imdadullah’s Hermeneutic of Reconciliation,” Sagar: A South Asia Journal 21, 2013, pp. 1-16を参照のこと。

[14] Zaman, Ashraf ‘Ali Thanawi, p. 10. 他のデーオバンド派の重要人物として、その反英的立場やインド・ムスリム民族主義の提唱者として知られるフサイン・アフマド・マダニー(Ḥusayn Aḥmad Madanī, d. 1957)を挙げることができる。彼の見解は、1939年に発表された『統一的民族主義とイスラーム(Muttaḥida Qawmiyyat awr Islām)』という冊子に収録されたが、彼はその中で多元的なインド社会という観念を提示し、ムスリムたちは自らのアイデンティティや利益を犠牲にすることなく、当の社会の中で成功することができると主張した。詳しくは、S. V. R. Nasr, Mawdudi and the Making of Islamic Revivalism, Oxford: Oxford University Press, 1996, p. 32ffを参照のこと。

[15] Zaman, Ashraf ‘Ali Thanawi, p. 29ff.

[16] Ibid., p. 105.

[17] ターナヴィーの伝記作家が述べるように、彼は神秘主義やイスラーム法といった様々な諸問題の全てを実践的に包含するような論考を数百も残している。例えば、ターナヴィーの大著『稀有なる出来事の前兆(Bawādir al-Nawādir)』では、社会・法学・神秘主義・神学・哲学に関する一連の諸問題が、彼自身に寄せられた問いに基づいて論じられているが、これに関しては更なる分析が必要である。詳しくは、Ashraf ‘Alī Thānavī, Bawādir al-Nawādir, Lahore: Shaykh Ghulām ‘Alī, 1962, pp. 94, 109, 129, 131, 165, 177, 454-64を参照のこと。ターナヴィーはまた、イブン・アラビーの神秘主義哲学に対する擁護の書も残しており、とりわけ彼の聖者性(walāya)概念の問題については、そのほとんどがシャアラーニー(‘Abd al-Wahhāb al-Sha‘rānī, d. 1565)の見解に基づいている。詳しくは、Ashraf ‘Alī Thānavī, al-Tanbīh al-Ṭarabī fī Tanzīh-i Ibn al-‘Arabī, Thāna Bhawan: Ashraf al-Maṭba‘, 1927, passimを参照のこと。他の重要作品としては、ズィクルやファナー、バカーといったスーフィズム実践の聖典的根拠の証明を目的とした『洗練されたスンナを通じたタリーカの真相(Ḥaqīqat al-Ṭarīqa min al-Sunnat al-Anīqa)』(1909年)があり、この作品は『タサウウフの重要な諸問題についての開示(al-Takashshuf ‘an Muhimmāt al-Taṣawwuf)』(Deoband: Maktaba-yi Tajallī, 1972)の一部として刊行されている。さらに、ターナヴィーは社会や法学に関する諸問題を扱った論考も残しており、例えば『伝承された諸規定への合理的調和(al-Maṣāliḥ al-‘Aqliyya li’l-Aḥkām al-Naqliyya)』(Lahore: Kutub Khāna-yi Jāmilī, 1964)や『ファトワー集の諸援助(Imdād al-Fatāwā)』(Muftī Muḥammad Shafī‘ (ed.), Deoband: Idāra-yi Ta’līfāt-i Awliyā, 1974)などがある。

[18] 南アジアの植民地的近代に関する研究については、Saurabh Dube, “Introduction: Colonialism, Modernity, Colonial Modernities,” Nepantla: Views from South 3(2), 2002, pp. 197-219; idem, Subjects of Modernity: Time-Space, Disciplines, Margins, Manchester: Manchester University Press, 2017; Saurabh Dube and Ishita Dube (ed.), Unbecoming Modern: Colonialism, Modernity and Colonial Modernities, Delhi: Social Science Press, 2006; Lakshmi Subramanian, “The Master, the Muse and the Nation: The New Cultural Project and Reification of Colonial Modernity in India,” Journal of South Asian Studies 23(2), 2000, pp. 1-32などを参照のこと。ある程度の批判的記述については、Dipesh Chakrabarty, “The Difference-Deferral of (A) Colonial Modernity: Public Debates on Domesticity in British Bengal,” History Workshop 36, 1993, pp. 1-34を参照のこと。

[19] Ingram, Revival from Below, pp. 33-34.

[20] Sanjay Subrahmanyam, “Hearing Voices: Vignettes of Early Modernity in South Asia, 1400-1750,” Daedalus 127(3), 1998, pp. 75-104を参照のこと。

[21] また、フランス啓蒙主義の隆盛によって、「近代的」という語は時間の経過による知識の無限的進歩や社会的・道徳的発展などへの信仰を特徴付けるようになった。詳しくは、Jürgen Habermas, “Modernity versus Postmodernity,” New German Critique 22, 1988, pp. 3-14(at 9)を参照のこと。社会論的・哲学的「近代」の概念については、Jürgen Habermas, The Philosophical Discourses of Modernity: Twelve Lectures, F. Lawrence (tr.), Cambridge: Polity Press, 1987; Anthony Giddens, The Consequences of Modernity, Stanford: Stanford University Press, 1990; Bruno Latour, We Have Never Been Modern, Cambridge, MA: Harvard University Press, 1993; Fredric Jameson, A Singular Modernity: Essay on the Ontology of the Present, London and New York: Verso, 2002などを参照のこと。

[22] Habermas, “Modernity versus Postmodernity,” pp. 3-4. 但し、「近代」の輪郭に関する包括的議論が本稿の目的ではないがゆえに、こうした簡潔な説明が適切である。

[23] Charles Tayler, “Two Theories of Modernity,” The Hastings Center Report 25(2), 1995, pp. 24-33.

[24] Ibid.

[25] Jameson, A Singular Modernity, p. 31. Michael Foucaultは自らのエッセイ「啓蒙とは何か?(What is Enlightenment?)」において、「近代」それ自体というよりも「近代の姿勢」について述べている。すなわち、彼にとっての「近代の姿勢」とは、「現行の現実との関わり方の様式であり、それは特定の人々による自発的選択であるが、結局のところ、それは考え方や感じ方、そして行動や振舞いの仕方でもある。それは帰属関係を示すと同時に、それ自体をある種の任務としても提示している」という。Foucaultはこれを「エートス」というギリシア語の観念に結び付けている。Foucaultは、Charles-Pierre Baudelaireに依拠しつつ、時の経過に直面した際の時間の断絶意識や伝統との訣別、新しさあるいは眩暈の感覚といった様々な観点から「近代の姿勢」を描写する。詳しくは、Michel Foucault, “What is Enlightenment?” in P. Rabinow (ed.), The Foucault Reader, Catherine Porter (tr.), New York: Pantheon Books, 1984, pp. 32-50(at 38)を参照のこと。

[26] Ingram, Revival from Below, p. 34.

[27] Margrit Pernau, Emotions and Modernity in Colonial India: From Balance to Fervor, Oxford: Oxford University Press, 2019, pp. 5-6.

[28] Ibid., p. 5.

[29] Ibid., p. 5.

[30] Ibid., p. 6.

[31] 例えば、彼の作品タイトルの一つである『新時代に向けた崇高な目的(al-Qaṣd al-Mashīd li’l-Aṣr al-Jadīd)』を見よ。

[32] 言うまでもなく、ここでは近代という語が有する二つの意味が相互に暗示されている。

[33] このことは、Tareenの博学な著作Defending Muḥammad in Modernityにおいて示されている。本書は植民地期南アジア・ムスリム社会における宗派間対立に着目したものであり、そこでは神の主権や預言者のカリスマ性、日常的な宗教実践といった幅広い事柄が扱われている。Tareenは、デーオバンド派とバレールヴィー派の間の長きにわたる論争について論じる一方、近代の技術的・制度的状況、及びその認識論的源泉と伝統を区別するよう促す。というのも、論争の参加者たちは、植民地的近代の技術的恩恵を間違いなく受けていたにも拘らず、近代の政治的・概念的な力には還元され得ないテクスト・権威・実践という長年にわたるイスラームの知的遺産を活用していたからである。詳しくは、Tareen, Defending Muḥammad in Modernity, passimを参照のこと。

[34] Thānavī, al-Intibāhāt al-Mufīda ‘an al-Ishtibāhāt al-Jadīda, Deoband: Maktaba-yi Nashr al-Qur’ān, n. d., pp. 1-13. 本書が、1908年にターナヴィーがアリーガルの学生団体から招待を受け、ムハンマダン・アングロ・オリエンタル・カレッジ(アリーガル・ムスリム大学の前身であり、近代教育と科学の拠点)で行った講演の内容が基になっていることは極めて重要である。「序文」にてターナヴィーは、学生たちの非常に熱心な姿勢が最終的には本書の執筆に自らを駆り立てたと述べる。しかし、彼は本書で扱われる主題がより高度な内容を論じるための予備的役割を果たすべきであり、将来的にはその責務を誰かが担うことを望むとも述べている。本書の英訳は、Islam, the Whole Truth, Muhammad Hasan Askari and Karrar Husain (tr.), Multan: Idāra-yi Ta’līfāt-i Ashrafiyya, 2003に収録されている。本作品では、アラビア語やペルシア語の専門用語が用いられているが、元々それはウルドゥー語で書かれている。残念ながら、Askariらの英訳は用語の誤訳や英語の用法に関する間違いが目立つ。さらに、議論が論争的様相を帯び始めると、訳者たちは常に「イデオロギー的」な風味付けをしているようにも思われる。参照文献としての便宜上、ここではウルドゥー語の原文から直接引用しつつも、彼らの翻訳に少々修正を加えたものを使用する。

[35] Thānavī, al-Intibāhāt, preface.

[36] Naeem, Sufism and Revivalism, p. 443. デーオバンド派とは対照的に、サイイド・アフマド・ハーン(Sayyid Aḥmad Khān, d. 1898)はムスリムが近代科学の探求に際して、ヒンドゥー教徒やより広い世界に追い付く必要があると考えた。彼の考えによれば、ムスリムはインド大反乱において政治的に無力となってしまったがゆえに、イギリスと協力して彼らの言語である英語を用いることで、インドにおけるムスリムの支配を再び確立する必要があるという。アフマド・ハーン自身は近代主義的イスラームの唱導者であったが、彼が主導するアリーガル運動は、一般のムスリムやデーオバンド派によって広く批判された。詳しくは、David Lelyveld, Aligarh’s First Generation, Princeton, NJ: Princeton University Press, 1978, pp. 71-100, 106-22を参照のこと。

[37] SherAli Tareen, “Narratives of Emancipation in Modern Islam: Temporality, Hermeneutics, and Sovereignty,” Islamic Studies 52(1), 2013, pp. 5-28 at 5-6. 「認識論的植民地主義」という概念については、Bernard S. Cohn, Colonialism, and Its Forms of Knowledge: The British in India, Princeton, NJ: Princeton University Press, 1996, pp. 3-15を参照のこと。

[38] Pernau, Emotions and Modernity, p. 255.

[39] Metcalf, Islamic Revival in British India, pp. 138-90, 235-63. イスラーム復興主義・改革主義運動については、Jamal Malik, Islamische Gelehrtenkultur in Nordindien: Entwicklungsgeschichte und Tendenzen am Beispiel von Lucknow, Leiden: Brill, 1997, passim(特にp. 211ff)を参照のこと。ラヒーミーヤ学院とワリーウッラーのイスラーム復興プロジェクトについては、Jonathan A. C. Brown, Misquoting Muhammad: The Challenge and Choices of Interpreting the Prophet’s Legacy, London: Oneworld Publications, 2014, passim; Abulhasan Ali Nadvi, Saviours of Islamic Spirit, vol. 4: Hakim-ul-islam Shah Waliullah, Lucknow: Academy of Islamic Research & Publications, 2004, pp. 91-114などを参照のこと。

[40] 我々がスーフィズムをイスラームそれ自体と同程度に多様なものと見做し、単純な定義付けを回避する場合。

[41] ワリーウッラーの思想におけるスーフィズムとシャリーアの関係性については、Muhammad U. Faruque, “Sufism contra Shariah?: Shāh Walī Allāh’s Metaphysics of Waḥdat al-Wujūd,” Journal of Sufi Studies 5, 2016, pp. 27-57を参照のこと。

[42] すなわち、ここではスーフィズムが「イフサーン」と同一視されている。「イフサーン」としてのスーフィズムについては、William C. Chittick, Sufism: A Beginners’ Guide, Oxford: Oneworld, 2005, pp. 4, 25-37を参照のこと。

[43] Walī Allāh, Alṭāf al-Quds, Gujranwala: Madrasa-yi Nuṣrat al-‘Ulūm, 1964, p. 53.

[44] 詳しくは、Wael Hallaq, “What is Sharia?” Yearbook of Islamic and Middle Eastern Law, 2005-2006, vol. 12, Leiden: Brill, 2007, pp. 151-80を参照のこと。

[45] 適当な例を一つ挙げるとすれば、「アダブ(adab, 社会的・精神的作法)」がそれに当て嵌まるだろう。この「アダブ」という語は、ムスリムたちの社会生活において重要な役割を果たしている包括的概念である。

[46] シャリーアとタリーカ(スーフィーの修行道)の関係性については、Sayyid Ḥaydar Āmūlī (d. after 787/1385), Asrār al-Sharī‘a wa Aṭwār al-Ṭarīqa wa Anwār al-Ḥaqīqa, Riḍā Muḥammad Ḥidarj (ed.), Beirut: Dār al-Hādī, 2003, pp. 8-15, 73-89, 120-28; ‘Abd al-Salām Muḥammad al-Bakkārī, al-‘Aqīda, al-Sharī‘a, al-Taṣawwuf ‘inda al-Īmān al-Junayd Abū al-Qāsim al-Khazzāz al-Baghdādī, al-Dār al-Bayḍā’: Markaz al-Turāth al-Thaqāfī al-Maghribī, 2008, p. 25ffなどを参照のこと。

[47] Thānavī, Intibāhāt, pp. 7-8, Askari and Husain (tr.), modified, p. 121.

[48] ワリーウッラーと同じように、ターナヴィーもまたスーフィズムとシャリーアは表裏一体のものであると主張している。詳しくは、Ingram, Revival from Below, p. 122を参照のこと。

[49] Abū Ḥāmid al-Ghazālī, The Incoherence of Philosophers (Tahāhut al-Falāsifa), M. E. Marmura (ed. & tr.), Provo: Brigham Young University Press, 2000, intro.; Ibn Rushd, Tahāhut al-Tahāhut, M. Bouyges (ed.), Beirut: Imprimerie Catholique, 1930などを参照のこと。南アジア・ムスリム社会におけるイスラーム神学・哲学の豊穣な歴史をここで詳しく扱う余裕はないが、ターナヴィーの時代においては、バラカート・アフマド・トゥーキー(Barakāt Aḥmad Ṭūkī, d. 1929)といった傑出した人物を中心に、アブドゥルハック・ハイラーバーディー(‘Abd al-Ḥaqq al-Khayrābādī, d. 1900)の理性的諸学(ma‘qūlāt)の伝統を重視する学派が未だに活動的であった。ターナヴィーの同時代人バラカート・アフマドは、ハイラーバーディーと共にムッラー・サドラー(Mullā Ṣadrā, d. 1050/1640)の『導き注釈(Sharḥ al-Hidāya)』を学び、『知性の四つの旅に関する超越的哲学(al-Ḥikma al-Muta‘āliyya fī Asfār al-‘Aqliyya al-Arba‘)』(以下『四つの旅』)に加えて同書を教授した。バラカート・アフマドは自身の代表作『究極哲学の注釈における昇りゆく明証(al-Ḥujja al-Bāzigha fī Sharḥ al-Ḥikma al-Bāligha)』において、先述の『四つの旅』や『導き注釈』、イブン・スィーナー(Ibn Sīnā, d. 1037)の『治癒の書(Kitāb al-Shifā‘)』に対する注釈書、そしてクトゥブッディーン・シーラーズィー(Qutb al-Dīn al-Shīrāzī, d. 710/1311)の『照明哲学注釈(Sharḥ Ḥikmat al-Ishrāq)』に対する註解書などに依拠しつつ、サドラー哲学の様々な教義を説明している。詳しくは、Barakāt Aḥmad, al-Ḥujja al-Bāzigha fī Sharḥ al-Ḥikma al-Bāligha, Deccan: ‘Uthmān Baryāsī, 1916; idem, Itqān al-‘Irfān fī Taḥqīq Māhiyyat al-Zamān, Lucknow: Shāhī Press, 1337; idem, Imām al-Kalām fī Taḥqīq Ḥaqīqat al-Ajsām, Kanpur: al-Maṭba‘ al-Anẓāmī, 1333などを参照のこと。また、インドにおけるイスラーム哲学・神学を概説したものとして、Asad Q. Ahmed, Palimpsests of Themselves: Logic and Commentary in Postclassical Muslim South Asia, Oakland, CA: University of California Press, 2022; idem, “The Mawāqif of ‘Aḍud al-Dīn Ījī in India,” in Ayman Shihadeh and Jan Thiele (ed.), Philosophical Theology in Islam: Later Ash‘arism East and West, Leiden: Brill, 2020, pp. 397-412; idem, “The Sullam al-‘Ulūm of Muḥibballāh al-Bihārī,” Khaled El-Rouayheb and Sabine Schmidtke (ed.), Oxford Handbook of Islamic Philosophy, Oxford: Oxford University Press, 2017, pp. 488-508; idem, “Post-Classical Philosophical Commentaries/ Glosses: Innovation in the Margins,” Oriens 41(3-4), 2013, pp. 317-48; Asad Q. Ahmed and Reza Pourjavady, “Theology in the Indian Subcontinent,” Sabine Schmitdke (ed.), The Oxford Handbook of Islamic Theology, Oxford: Oxford University Press, 2016, pp. 606-24などがある。

[50] イスラーム哲学における「諸学問の分類」を幅広く分析した研究として、Osman Bakar, Classification of Knowledge in Islam: A Study in Islamic Philosophies of Science, Cambridge: Islamic Texts Society, 1998がある。

[51] Thānavī, Intibāhāt, p. 7, Askari and Husain (tr.), modified, p. 121.

[52] 形相と質量、及びアリストテレスにおける物質の原因としての「形相」については、Bernard Williams, “Hylomorphism,” Oxford Studies in Ancient Philosophy 4, 1986, pp. 189-99; Michael Wedin, Aristotle’s Theory of Substance, Oxford, New York: Oxford University Press, 2000, chaps. 6-8; M. L. Gill, Aristotle on Substance: The Paradox of Unity, Princeton: Princeton University Press, 1989, chaps. 3-4などを参照のこと。

[53] Thānavī, Intibāhāt, p. 21, Askari and Husain (tr.), modified, p. 148. これらは、『有益な諸訓戒』に通底する非常に難解な哲学的記述の具体例である。しかし、こうした難解な諸問題をターナヴィーが如何なる仕方で哲学的に解釈したのかという点については更なる分析が必要である。というのも、Naeemの論考“A Traditional Islamic Response”も本稿における筆者の分析も、こうした問いには十分に答えていないからである。

[54] 最後の点に関する詳細な説明については、本稿のp. 234ffを参照のこと。

[55] Thānavī, Intibāhāt, p. 36, Askari and Husain (tr.), modified, p. 181. 実際のところ、ターナヴィーは『有益な諸訓戒』の中でサイイド・アフマド・ハーン(Sayyid Aḥmad Khān, d. 1898)に言及しているが、それは彼が近代科学の偉大な信奉者として認知されていたからである。

[56] これらの理論的諸問題の全てを詳細に分析した研究として、Muhammad U. Faruque, Sculpting the Self: Islam, Selfhood and Human Flourishing, Ann Arbor: University of Michigan Press, 2021がある。本書は、前近代から近代のイスラームにおける自己性の概念を網羅的に扱った最初の研究である。他にも、自己の概念を概説したものとして、Raymond Martin and J. Barresi, The Rise and Fall of Soul and Self: An Intellectual History of Personal Identity, New York: Columbia University Press, 2006; Shaun Gallagher (ed.), The Oxford Handbook of the Self, Oxford: Oxford University Press, 2011; Richard Sorabji, Self: Ancient and Modern Insights about Individuality, Life, and Death, Chicago: University of Chicago Press, 2006; Charles Taylor, Sources of the Self: The Making of the Modern Identity, Cambridge, MA: Harvard University Press, 1989などがある。但し、「自己」という語の歴史的起源については、ジョン・ロック(John Locke)の『人間的理解に関するエッセイ(An Essay concerning Human Understanding)』という有名な著作を参照するしかなく、そこで彼は人間本性の新たな哲学の提示を試みている。ロックと自己についての詳細な情報は、George Makari, Soul Machine: The Invention of the Modern Mind, NY: Norton, 2015, p. 115を参照のこと。

[57] これは、スーフィーにとって、自己性が永遠に変化し続ける神名(al-asmā’ al-ilāhī)の不断の顕現であるからだ。

[58] スーフィズムにおける自己性を論じようとすると、文献学的な困難が生じるが、これは本論考で扱う問題範囲を超えているため、取り上げることはできない。しかし、少なくとも次のことは知っておかねばなるまい。すなわち、「ナフス(nafs)」や「ダート(dhāt)」、「フード(khūd)」、「ルーフ(rūḥ)」、「スィッル(sirr)」、「ハフィー(khafī)」、「アフファー(akhfā)」といった諸語が存在し、様々なスーフィー著述家たちが自己について語るためにこれらを用いてきたという点である。また、彼らはその際、これらの語の意味合いが共通の参照先を示しているか否かを考慮することなしに、スーフィズムにおける自己を論じることはできないだろう。詳しくは、Faruque, Sculpting the Self, pp. 24-25, 43-47を参照のこと。

[59] Thānavī, Ashraf al-Tafāsīr, vol. 2, Muḥammad Taqī ‘Uthmānī (ed.), Multan: Idāra-yi Ta’līfāt-i Ashrafiyya, 2003, p. 325.

[60] Ibid., pp. 325-27.

[61] Ibid., pp. 295-97. ターナヴィーは以下の記述をルーミーの『精神的マスナヴィー』から引用している——「自らの根本から遠ざかっている者は誰であれ、自らの合一の瞬間に戻りたいと思う」。詳しくは、Jalāl al-Dīn Rūmī, Mathnawī-yi Ma‘nawī, R. A. Nicholson (ed. & tr.), as The Mathnawī of Jalāluddīn Rūmī, vol. 1, London: Luzac, 1924-40, p. 4を参照のこと。

[62] Ali MianとIngramの両者は、ターナヴィーの思想における自己の諸側面について論じている。Mianの未刊行の博士論文ではターナヴィーの「情動的自己」が扱われている一方、Ingramの研究ではデーオバンド派の思想一般における「倫理的自己」に焦点が当てられている。これらとは対照的に、本研究では自己の心理的・倫理的側面に着目する一方、ターナヴィーの作品群における「形而上的自己」(=完全人間)に読者たちの関心を向ける。例えば、Mianは情動的愛(‘ishq)が如何にしてターナヴィーにおける人間の主観性概念の本質を構成するかを示しており、そこで彼は自然本性(ṭabī‘at)や生来的性質(fiṭrat)、美的感覚(dhawq)、性向(mayl)といった関連する要素を持ち出している。詳しくは、Ali A. Mian, “Surviving Modernity: Ashraf ‘Alī Thānvī (1863-1943) and the Making of Muslim Orthodoxy in Colonial India,” Ph. D diss., Duke University, 2015, pp. 120-22, 143を参照のこと。また、Ingram, Revival from Below, p. 136ffも参照のこと。注記しておきたいのは、ターナヴィーの思想における自己が多層的実体であるということであり、このことは、形而上的自己や倫理的自己といった、自己の様々な諸側面同士の内的関係性が前提となっていることを意味する。

[63] イスラーム神秘主義の重要教義となった完全人間(ギリシア語ではanthrōpos teleios)論は、イランやグノーシス主義にその起源を求めることができる。例えば、A. Christensen, Les Types du premier homme et du premier roi dans l’histoire légendaire des Iraniens, Leiden: Uppsala, 1917-34; M. Molé, Culte, mythe et cosmologie dans l’Iran ancien: le problème zoroastrien et la tradition mazdéenne, Paris: Presses Universitaires de France, 1963, p. 469ff.; H. H. Schaeder, “Die islamische Lehre vom Vollkommenen Menschen,” ZDMG 4, 1925, pp. 192-268などを参照のこと。Anthrōpos teleiosの観念については、Bryan S. Turner, Orientalism: Early Sources, vol. 1, London and New York: Routledge, 2000, p. 577ffを参照のこと。完全人間論のイスラーム的起源については、Ibn ‘Arabī, al-Insān al-Kāmil min Kalām Muḥyī al-Dīn Ibn al-‘Arabī, Maḥmūd al-Ghurāb (ed.), Damascus: Maṭba‘at Zayd ibn Thābit, 1981; ‘Azīz al-Dīn Nasafī, al-Insān al-Kāmil, M. Molé (ed.), Tehran and Paris: A. Maisonneuve, 1962; ‘Abd al-Karīm al-Jīlī, al-Insān al-Kāmil fī Ma‘rifat al-Awākhir wa'l-Awā’il, Beirut: Mu‘assasat al-Ta’rīkh al-‘Arabī, 2000; Toshihiko Izutsu, Sufism and Taoism: A Comparative Study of Key Philosophical Concepts, Berkeley and Los Angeles: University of California Press, 1984, pp. 247-86; R.A. Nicholson, Studies in Islamic Mysticism, Richmond: Curzon, 1994, pp. 77-142; A. E. Afifi, The Mystical Philosophy of Muhyid Dín-Ibnul ‘Arabí, Cambridge: Cambridge University Press, 1939), p. 78ff; F. Meier, "Der Geistmensch bei dem persischen Dichter ‘Aṭṭār” Eranos-Jahrbuch 13, 1945, pp. 283-353; L. Massignon, “L’homme parfait en Islam et son originalité eschatologique,” Eranos-Jahrbuch 15, 1947, pp. 287-313 (Opera Minora, vol. 1, pp. 107-25)などを参照のこと。また、‘A. R. Badawī, al-Insān al-Kāmil fī’l-Islām, Kuwait: Wikālat al-Maṭbū‘āt, 1976も参照のこと。

[64] Takeshitaは、完全人間と小宇宙の実在を同一視しているように思われるが、それは間違いであると考える。なぜなら、完全人間は小宇宙のみに留まらず、実在のあらゆる次元を包括するからである。Takeshitaによるイブン・アラビーの完全人間論の議論については、Masataka Takehista, Ibn ‘Arabī’s Theory of the Perfect Man and Its Place in the History of Islamic Thought, Tokyo: Institute for the Study of Languages and Cultures of Asia and Africa, 1987, p. 170ffを参照のこと。

[65] ターナヴィーの完全人間論については、彼による『叡智の台座』のウルドゥー語注釈書に基づいて分析していく。この注釈書の中でターナヴィーは、完全人間としての自己概念を概説している。本作品の「序文」において、彼は『叡智の台座』の注釈を記すことを誰かと約束したと述べており、その約束を果たすために彼はその作業に取り掛かったという。詳しくは、Thānavī, Khuṣūṣ al-Kalim fī Ḥall-i Fuṣūṣ al-Ḥikam, Lahore: Nazirsons Publishers, 1978, pp. 2-3を参照のこと。ターナヴィーによる注釈書は、イスラームの中心地から中国、マレー半島に至る地域において、何世紀もの間に著されてきた『叡智の台座』に対する注釈書の系譜に連なっている。ムヒッブッラー・イラーハーバーディー(Muḥibb Allāh Ilāhābādī, d. 1058/1648)などの著名なスーフィー思想家たちは、アラビア語とペルシア語の両方で『叡智の台座』の注釈書を残したが、ターナヴィーのそれは初のウルドゥー語による注釈書であると思われる。しかし、ターナヴィーはオスマン朝のバーリー・エフェンディー(Bālī Efendī, d. 960/1553)やペルシアのアブドゥッラフマーン・ジャーミー(‘Abd al-Raḥmān al-Jāmī, d. 898/1492)らの文言を頻繁に引用している。『叡智の台座』のウルドゥー語による注釈書については、メフル・アリー・シャー(Mehr ‘Alī Shāh, d. 1937)がウルドゥー語で行った『叡智の台座』の講義録があり、それは『喜悦の論集(Maqālāt al-Marḍiyya)』として出版された(出版年不明)。さらに記しておくべきは、ムバーラク・アリー(Sayyid Mubārak ‘Alī)が『叡智の台座』のウルドゥー語訳を最初に完成させた人物であると思われ、それが『永遠の秘宝(Kunūz Asrār al-Qidam)』(Kanpur, 1894年)として出版されたということである。

[66] Thānavī, Khuṣūṣ al-Kalim, p. 15. Cf. Ibn ‘Arabī, Fuṣūṣ al-Ḥikam, A. E. Afīfī (ed.), Beirut: Dār al-Kitāb al-‘Arabī, 1966, pp. 49-50; Dāwūd al-Qayṣarī, Maṭla‘ Khuṣūṣ al-Kalim fī Ma‘ānī Fuṣūṣ al-Ḥikam (Sharḥ Fuṣūṣ al-Ḥikam), Tehran: Intishārāt-i ‘Ilmī wa Farhangī, 1998, pp. 326-30.

[67] al-Qayṣarī, Sharḥ Fuṣūṣ al-Ḥikam, pp. 329-33を参照のこと。

[68] Thānavī, Khuṣūṣ al-Kalim, p. 10. この点は、14世紀の神秘家マフムード・シャビスタリー(Maḥmūd Shabistarī)のムハンマド的真実在(ḥaqīqa muḥammadiyya)という視座からも説明できる。詳しくは、Shabistarī, Gulshān-i Rāz, Parvīz ‘Abbāsī (ed.), Tehran: Intishārāt-i Ilhām, 2002, pp. 33-34を参照のこと。

[69] Thānavī, Khuṣūṣ al-Kalim, p. 20. 人間の自己に具現化された完全人間の統合性については、‘Abd al-Raḥmān Jāmī, Naqd al-Nuṣūṣ fī Sharḥ Naqsh al-Fuṣūṣ, William C. Chittick (ed.), Tehran: Imperial Iranian Academy of Philosophy, 1977, pp. 61-64を参照のこと。

[70] Thānavī, Khuṣūṣ al-Kalim, pp. 20-21; cf. Ibn ‘Arabī, al-Insān al-Kāmil, pp. 7-11.

[71] 詳しくは、al-Qayṣarī, Sharḥ Fuṣūṣ al-Ḥikam, pp. 328-31を参照のこと。カイサリーによれば、神(すなわち神的本質)は「隠された宝(kanz makhfī)」であったため、自らを知られることを欲したという。それゆえ、神は宇宙を存在せしめたのである。しかし、宇宙創造の究極的原因(‘illa ghāya)は完全人間である。完全人間はあらゆる完全性を内包するがゆえに、その者を通じて神は統合的な仕方で知られるようになる。「隠された宝」のハディースとそれに関するイブン・アラビーの説明については、Claude Addas, Ibn ‘Arabī: The Voyage of No Return, Cambridge: Islamic Texts Society, 2010, pp. 91-92を参照のこと。また、Mu’ayyid al-Dīn Jandī, Sharḥ Fuṣūṣ al-Ḥikam, S. J. Āshtiyānī (ed.), Mashhad: Dānishgāh-i Mashhad, 1982, p. 157ffも参照のこと。

[72] Thānavī, Khuṣūṣ al-Kalim, pp. 10-11.

[73] 注記しておくべきは、この記述が示す「緊張状態(tense)」は、自らを目撃したいと欲する「神の意思」が「一時的な」出来事であるということを示しているが、実際のところ、これは時間を超越した「非一時的な」行為を意味するようになるという点である。それゆえ、ターナヴィーは、人間は自らの知的存在(wujūd-i ‘imī)、すなわち恒常原型(a'yān-i thābita)が考慮されている限り永遠であると主張する。その目撃行為は永遠であると主張する。さらに彼は、この次元(wujūd-i ‘ilmīあるいはa‘yān thābita)では、あらゆるものが永遠(azalī)であるが、人間は他のあらゆるものに比して優越性を有するがゆえに、こうした永遠性も[知的存在の次元に]反映されるべきであると説明する。詳しくは、Thānavī, Khuṣūṣ al-Kalim, p. 18を参照のこと。

[74] Thānavī, Khuṣūṣ al-Kalim, p. 11.

[75] Ibid., p. 11.

[76] Ibid., p. 11.

[77] Ibid., p. 12.

[78] Ibid., p. 11-12. 神の本質は無限であるがゆえに、その中には顕現のあらゆる可能性が必然的に含まれている。

[79] Ibid., p. 13. 「鏡の象徴性」やその意味論的分析については、Michael Sells, Mystical Languages of Unsaying, Chicago: University of Chicago Press, 1994, pp. 63-89; idem, “Ibn ‘Arabi’s Polished Mirror: Perspective Shift and Meaning Event,” Studia Islamica 66, 1988, pp. 121-49などを参照のこと。

[80] Thānavī, Khuṣūṣ al-Kalim, p. 13.

[81] 井筒は、完全人間の様態が三つではなく二つであると述べる。彼は完全人間の超宇宙的な次元を省いているが、これは彼が完全人間の実在を神的本質の下に限定しているためである。しかしながら、これはターナヴィーやほとんどのイブン・アラビーの注釈者たちが受け入れてきた立場ではない。この問題に関する井筒の見解については、Izutsu, Sufism and Taoism, p. 247ffを参照のこと。

[82] しかし、預言者や聖者の場合でさえも、完全人間の実現には階層がある。それゆえ、他の預言者たちと比べて、預言者ムハンマドは完全人間の至高なる原型である。

[83] 「実在」の諸段階は基本的に五つか六つに集約され、それはスーフィー形而上学において「五つの神的臨在(al-haḍarāt al-ilāhiyyat al-khams)」と呼ばれる。こうした臨在(あるいは現前)の段階は、スーフィー形而上学においても言われているように、あらゆる実在を包摂する。様々な「臨在」は、顕現の諸段階において神的本質が多様化する仕方を表している。一般的に言って、それは次のようなものである——「神的自己(hāhūt)」、「神の名と属性(lāhūt)」、「天使界(jabarūt)」、「想像界(malakūt)」、「物質界(mulk)」、あるいは完全人間の段階。ここで注記しておくべきは、「本質(dhāt)」や「本質性(dhātiyya)」、「一性(wāḥidiyya)」といった用語も、こうした神的臨在を言い表す際に用いられるという点である。この教義は、特にイブン・アラビー学派の重要な思想家たちによって唱えられるものである。この教義の歴史的分析の詳細については、William Chittick, “The Five Divine Presences: From al-Qūnawī to al-Qayṣarī,” The Muslim World 72, 1982, pp. 107-28を参照のこと。

[84] 「インサーン・カーミル(insān al-kāmil)」という術語における「インサーン(insān)」の語は時に誤解を招き得る。というのも、完全人間は地上的人間の機能を遥かに超越する一方、この語が「超人的なイメージ」をもしばしば想起させるからである。

[85] Thānavī, Khuṣūṣ al-Kalim, p. 17.

[86] Ibid., p. 17.

[87] イスラーム世界の統治者としての「ハリーファ(khalīfa)」という語の政治的意味はよく知られている。しかし、スーフィーたちにとっても、この語は形而上学的意味を有しており、それは完全人間(al-insān al-kāmil)という概念を通じて表現される。端的に言えば、完全人間論とは、人間の繁栄能力を含むある者の包括性や完全性を体現する能力を言い表したものである。しかし、注記しておくべきは、こうした道徳的且つ精神的衝動が所与のものではないという点である。その意味するところは、あらゆる個人の自己が道徳的生活を送り、自らの心を浄化することで、代理人の地位に到達しなければならないということである。

[88] Thānavī, Khuṣūṣ al-Kalim, p. 19. ターナヴィーはまた、「『アッラー、アッラー…』と唱える者たちが地上にいる限り、その時は来ないだろう」という、ムスリム(Muslim ibn Hallāj, d. 261/875)のハディース集に見出される文言にも言及する。イブン・アラビーによれば、このように特定の文言を唱えることの目的は、<名付けられる者(ma’sūm)>、すなわち地上における神的実在の召喚(istiḥḍār)であるという。それゆえ、誰もこうした実践を続けるために存在しないのであれば、世界を維持することの意味はなくなってしまうだろう。先のハディースに関するイブン・アラビーの解釈については、Tayeb Chourief, Spiritual Teachings of the Prophet, Louisville, KY: Fons Vitae, 2011, pp. 300-1を参照のこと。

[89] Thānavī, Khuṣūṣ al-Kalim, p. 19. 残念ながら、ターナヴィーは「自然の守護者性」という観念について、それが現代世界の環境危機を考える上で重要なトピックであるにも拘らず、詳細な説明を行なっていない。イスラームにおける環境主義については数多くの研究がなされてきた。例えば、Anna Gade, Muslim Environmentalisms: Religious and Social Foundations, New York: Columbia University Press, 2019; idem, Environmentalism in the Muslim World, Richard Foltz (ed.), New York: Nova, 2005などを参照のこと。イスラームの環境哲学については、Seyyed H. Nasr, Religion and the Order of Nature, New York: Oxford University Press, 1996を参照のこと。

[90] Thānavī, Khuṣūṣ al-Kalim, p. 19.

[91] Ibid., p. 17.

[92] ターナヴィーは霊的生活の「心理学」に関する説明に多くの紙幅を費やしている。例えば、『稀有なる出来事の前兆』という作品において、ターナヴィーは、初心者たちを究極的な霊的目標に到達することをしばしば妨げる「思考パターン」の内部構造について膨大な説明を行っている。彼は、絶え間ない独り言や言語化以前の思考、躊躇といった精神生活の様々な諸要素を霊的な自己性の完成にとっての大きな障害と見做している。詳しい情報については、Muhammad Ajmal, Muslim Contributions to Psychotherapy and Other Essays, Islamabad: National Institute of Psychology, Quaid-i-Azam University, 1986, pp. 44-45を参照のこと。

[93] すなわち、自我意識という個性は、より高位の意識様態によって超克されるということである。ムッラー・サドラーは自らのクルアーン注釈書の一つにおいて、この点を見事に明らかにしている。詳しくは、Mullā Ṣadrā, Tafsīr Sūrat al-Jumu‘a, M. Khwājawī (ed.), Tehran: Intishārāt-i Mawlā, 2010, p. 290を参照のこと。

[94] Ashraf ‘Alī Thānavī, ‘Irfān-i Ḥāfiẓ, Karachi: Nafīs Academy, 1976, p. 9ff.

[95] 「愛とワイン」の象徴性については、イブン・ファーリド(‘Umar ibn al-Fāriḍ, d. 1234)の『ハムリーヤ(al-Khamriyya)』という有名な詩に対するカイサリーの注釈も参照されたい。詳しくは、Th. Emil Homerin, The Wine of Love and Life, Chicago: University of Chicago Press, 2005, pp. 12-13, 40-41を参照のこと。カイサリーによれば、神秘主義詩における「ワイン」は、霊知のワインを言い表しているという。

[96] Thānavī, ‘Irfān-i Ḥāfiẓ, p. 9. 『詩集』の第一句は次の通りである——

   「さぁ、酌人よ、急げ、グラスを持ってきなさい
   一杯にしなさい、そしてそれを指輪に通しなさい
   愛は最初、簡単なものに見える——
   あぁしかし!困難が後に自覚される」
(Ḥāfiẓ, Fifty Poems of Ḥāfiẓ, A. J. Arberry (tr.), Cambridge: Cambridge University Press, 1974, p. 81)。

[97] Thānavī, ‘Irfān-i Ḥāfiẓ, p. 9. スーフィズムにおける「愛の道」の概念については、William C. Chittick, Divine Love: Islamic Literature and the Path to God, New Haven: Yale University Press, 2013, p. 195ffを参照のこと。

[98] Thānavī, ‘Irfān-i Ḥāfiẓ, p. 10.

[99] Ibid., p. 10.

[100] Ibid., p. 10.

[101] 「隠遁」とは、神の名を独居状態でひたすら唱える実践のことを指す。

[102] Ḥāfiẓ, The Divan of Hafez: A Bilingual Text, Persian-English, Reza Saberi (tr.), Lanham: University Press of America, 2002, pp. 62-63, trans. modified.

[103] Thānavī, ‘Irfān-i Ḥāfiẓ, pp. 88-89.

[104] ファナーとハルワの関係性については、Thānavī, ‘Irfān-i Ḥāfiẓ, pp. 197, 203, 231,を参照のこと。スーフィズム古典期におけるハルワの扱いに関しては、Najm al-Dīn Kubrā, Risāla fī’l-Khalwa, translated by Gerhard Böwering in his article “Kubrā’s Treatise on Spiritual Retreat, Risāla fī’l-Khalwa,” al-Abhath 54, 2006, pp. 7-34を参照のこと。

[105] Thānavī, ‘Irfān-i Ḥāfiẓ, pp. 89-90.

[106] 例えば、Ingram, Revival from Below, p. 131を参照のこと。興味深いことに、ターナヴィーはハッラージュ(Manṣūr al-Ḥallāj, d. 309/922)の「我は神なり(anā al-Ḥaqq)」という問題発言を擁護している。彼によれば、ハッラージュはこうした問題発言の後も神に祈りを捧げ続けていたことから、決して神の超越性を否定した訳ではないという。また、イブン・アラビーの遺産を取り巻く論争は今日に至っても盛んであり、それは過去700年のうちに発生してきた論争にも引けを取らない程である。このことに興味をお持ちの読者諸賢は、GoogleやYouTubeでイブン・アラビーの名をイスラーム諸国や西洋諸国の様々な言語で検索し、彼の彩りに満ちた遺産の意味について知ることをお勧めする。

[107] Mian, “Surviving Modernity,” p. 117.

[108] Ibid., p. 143.

[109] 例えば、Muhammad Iqbal, “The Doctrine of Absolute Unity as Expounded by ‘Abd al-Karīm al-Jīlī,” Indian Antiquary, 1900, pp. 237-46; idem, Bedil in the Light of Bergson, Dr. Tehsin Firaqi (ed. & annot.), Lahore: Iqbal Academy, 2000を参照のこと。イスラームの知的伝統に対するイクバールの評価は、ガザーリーによる11世紀の哲学者批判の後はイスラームの哲学的伝統は価値を失ったとする、オリエンタリストによる問題含みの(今日においては許容されない)論考に基づいている。詳しくは、Sajjad H. Rizvi, “Between Hegel and Rumi: Iqbal’s Contrapuntal Encounters with the Islamic Philosophical Traditions,” in Chad Hillier and B. Koshul (ed.), Muhammad Iqbal: Essays on the Reconstruction of Religious Thought, Edinburgh: Edinburgh University Press, 2015, p. 123を参照のこと。イクバールによる古典的スーフィー思想の解釈上の問題点については、Muhammad U. Faruque, “The Crisis of Modern Subjectivity: Rethinking Iqbal and Iqbal Studies,” Journal of Islamic and Muslim Studies 6(2), 2022, pp. 43-81を参照のこと。

[110] Muḥammad Iqbāl, Asrār-i Khūdī, Reynold A. Nicholson (tr.), Lahore: Muhammad Ashraf, 1964, pp. xxvii-xxixを参照のこと。

[111] Iqbāl, Asrār-i Khūdī, pp. xxvii-xxviii.


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