春に消えた輪郭に惑わされて
冬を終え、春を迎える。ただそれだけでよかったのに、物語は予期せぬ終わりを迎えた。エンドロールは流れない。流さないと言ったほうが正しいだろうか。終わった事実は変わらないため、どちらかなんてもはやどうでもいいだろう。
今日は、佳奈の家に遊びに行く。いつもどおり電車に乗って、最寄り駅までノンストップで向かう。駅に到着し、春風の冷たい空気が僕を襲う。まだ寒さが残る春風。日中の太陽の火照りが、少しだけ寒さを和らげているような気がした。
ちなみに夜になると、日中の温かさが嘘みたいに冷える。まだ手袋が必要なほどの寒さ。もう少しで日は暮れる。寒さとの対峙を避けたかった僕は、マフラーに包まれながら、佳奈の家を目指す。
佳奈の家に着き、いつもどおり晩御飯の支度をする。冬の締めとして鍋を2人でつつく約束をしていたため、佳奈が食材を切って、俺はお椀を出したり、ガスコンロの用意をした。
ご飯を食べ終え、映画を見ることになった。
「ねえ、佳奈、今日はどんな気分?」
「今日は甘ったるい恋愛映画が見たいわ」
悩んだ結果、「きみに読む物語」を観ることにした。1940年代のアメリカで恋に落ちた2人の物語。主人公のノアが、痴呆症になったアリーに物語を読み聞かせる淡くて切ないラブストーリー。
テレビを点け、部屋を暗くする。ソファの上で、佳奈が俺にもたれかかる。なんの変哲もないいつものシチュエーション。映画の途中で、佳奈が涙を流す。その隣で俺がもっと大泣きしていたため、佳奈の涙はすぐに止まった。
映画がクライマックスを迎えようとしているまさにそのときだった。
佳奈が突然、「私たちもう別れましょう」と口にした。なにがなんだか理解できない俺はもう1度聞き直してみたけれど、やはり同じ言葉だった。
なぜ佳奈はこのタイミングを、見計らったのだろうか。もう少し違うタイミングで言ってもらえたら、きちんと映画を見終えることができたかもしれないのに。
動揺を隠せない俺は、迷うことなく、「嫌だ」と答える。君がなぜ別れを切り出しているのかが、俺には理解できない。さっきまで睦まじい仲だったじゃないか。いつもどおりのなんの変哲もない日常。いつもなら冗談混じりで別れを切り出す佳奈だが、今回は目が真剣だ。いつもの冗談とは、どうやらちがうようだ。
佳奈に理由を尋ねると、簡単に解決しそうなことばかり。別れのきっかけはほんの些細なことの積み重ねだった。1つのボタンの掛け違いが、やがて取り返しのつかない自体を生み出した。それが今回の別れに繋がっただけの話だ。
「自分でも改善しなくちゃダメだ」ということは、分かっていたのかもしれない。でも、なぜ改善しなかったのだろうか。なぜ改善できなかったんだろうか。
答えはもうわからない。いや、わかりたくないだけかもしれない。自体はもう収束しない。いつもの聞いていないふりも佳奈には通用しなさそうだ。佳奈の思いに気づけなかった鈍感な俺でもそれだけはわかる。
2人に残された道は、ただ1つのみ。少し振り返れば、俺がバカだったことはすぐにわかる。俺はいつも与えてもらってばかりで、佳奈になにも返せていない。
佳奈は「私が悪い」と泣いたけど、悪いのはぜんぶ俺だった。きっと、君が僕から離れないと、勝手に勘違いしていたのだ。なにをやっても、一緒に居られるという幻想に、惑わされていたにちがいない。
恋は盲目だというが、よく言ったものだ。俺はおそらく佳奈のことが好きなじぶんに盲目的だった。佳奈のことを見ようとせず、恋をしているその事実にただ酔いしれていた。
その結果、佳奈は俺から離れようとしている。佳奈の俺に対する気持ちは、もはや皆無に等しい。1度離れたこころは、簡単には戻らない。それだけの仕打ちを、俺は彼女に仕出かした。
佳奈を傷つけたじぶんが悪いのに、彼女から離れたくないと縋る無様な男が、いま彼女の目の前にいる。俺は佳奈から離れたくない。この先、ずっと一緒にいると思っていた。
今日は一緒に映画を見て、一緒にベッドで、眠りにつくはずだった。この気持ちは執着なのか。はたまた愛なのか。俺にはよくわからない。でも「君が好き」という事実だけは、はっきりとわかる。
事実は小説よりも奇なり。「きみに読む物語」のアリーのように、記憶を失ってしまえばいいのに。そして、俺なしで生きる選択肢がなくなってしまえばいい。
気持ちの整理がつかないまま、物語が進んでいく。
別れを切り出す佳奈を目の前に、なにが最適解かわからなくなった俺は、佳奈に「さよなら」を言わせないように、キスで口を塞いだ。最後のキス。佳奈は俺の口を手で塞ぎ、涙を流しながら部屋を出た。
彼女にもう俺の声は届かない。そして、1人で佳奈の家を後にする。
諦める選択肢しかない恋。終わってしまった恋。終わるはずのなかった恋。まだここに残っている愛。行き場を失ってしまった愛。
泣きたいのはこっちのほうなのに、なぜ彼女は泣いていたんだろうか。ただ一緒にいるだけで、笑えていたのに。幸せを2人で掴んでいくと誓い合っていたのに。
おぼろ雲の灰色が街を埋め尽くし、空がぼんやりと霞んで見えている。輪郭を失ったその雲は、2人の関係性をまんまとあらわしていた。欲しかった春はこんな最低な春じゃない。彼女がそばにいる春があれば、ただそれだけでよかった。
離れてやっと気づいた。ずっとこの関係に執着していたのは僕だった。