
言葉は無力だけれど
文章と向き合っているときに、誰かのためになればいいという願いが芽生えてくる。それは自身が書いた文章によって何度も救われてきたためだ。その経験によって、自分のような人が増えればいいと願っているのかもしれない。
学生時代に小説を貪るように読み、太宰の自堕落な生活に自分よりもダメ人間がいるのかと安堵した。江國香織の思わず手に取ってみたくなる作品のタイトルに感銘を受け、登場人物の強さに自分もそうなりたいと願いを込めた。吉本ばななの織りなす寂しさと人生の美しさに魅入られて死生観について深く考えるようになった。伊坂幸太郎の独自の世界観によって周りと同じように過ごせないがゆえに芽生えたジェラシーから卒業できた。
だが、言葉は無力だ。ただの文字の羅列に力などあるわけがない。もう目的までに言葉の力を信じている時期もあったが、数々の裏切りによって希望が絶たれた。その事実に抗うために、今も文章を書き続けているし、誰かの役に立たなければ存在する意味はないと考えている。
ちなみに自身にとっての書くとは、自らの体験によって湧き出た感情を外へと放出する作業だ。そのほとんどが醜い感情の集合体で、悩みに対する吐露である。
「誰かのためになってほしい」という傲慢さが生み出す文章に美しさはない。自分のために書いて、その副産物として「誰かのためになった」というプロセスがもっとも理想的な観測だと考えている。
これまでたくさんの己の醜さと向き合った結果、たくさんの文章を生み出してきた。誰かのためという大義名分の「誰か」について何度も頭を抱えた結果、その対象が「自分自身」であると気づけた。名誉やプライドなど不必要な要素を削ぎ落とし続けるのは容易ではない。その行為は自己否定と捉えられる。だが、緩やかな地獄を生き続けるよりも、大きな地獄を乗り越えた方が後々楽になるのは事実だ。己の経験を一つずつ丁寧に紐解いていく作業は多くの時間をようしたが、醜さと対峙した結果、自分のためという結論と巡り会えた。
自分のために文章を書くだけなら世の中に公開する必要はない。己の顕示欲を満たすといった一種のナルシズムによって文章を公開しているのかもしれないとも思った。自身の考えを誰かに伝えたいのであれば、会った人に直接言葉をぶつけた方が早い。そのほかにも写真や動画、絵など様々な方法で自分を伝えることができる。それでも文章を書き続けているのは、自身がたくさんの文章によって救われてきたためだ。
言葉は無力だが、力がないからこそ生み出せる想像力があるのかもしれない。目に入った文字の羅列は受け手によって受け取り方が変わるものだ。筆者の伝えたい思いがほとんど伝わらない可能性もある。むしろそれを逆手に取って、解釈を自由に楽しんでほしいのかもしれない。
文章は気分によっても受け取り方が変わる。自身が高揚しているときに読む前向きな文章は肯定的に受け取れるが、悲しみに明け暮れているときに同じものを読んでも、拒絶反応しか生まれない。クソみたいな文章を読んだと感じる可能性もあるし、二度とお前の書いた文章を読みたくないと思う可能性もあるが、それはタイミングが悪かったに過ぎない。
自分の伝えたい思いが伝わらない。その差分をいかに減らすかに心血を注ぐ。構成をちゃんと練るのはもちろんのこと、公開ギリギリまで文章の細部にこだわる。比喩表現は苦手だけれど、なるべく使用するよう心がけているし、目の前の情景が思い浮かぶように、具体的なものやその時の心象を赤裸々とぶちまけることも厭わない。
自身が書いた文章によって、誰かの感想を聞くのが好きだ。それはこれまでの人生で得てきた確認作業のようなものになる場合もあるし、未知との遭遇の場合もある。書くことで、そして、誰かの声を聞くことで、自身の文章をアップデートしていく。その作業の繰り返しが、苦しみからの開放に繋がると盲目的に信じている。
今日は雨が降っているが、止まない雨はない。それは人生も同じで、受けてきた傷はやがて桃色のケロイドになる。いつの日か綺麗な皮膚に戻って、自分を成長させるためのいい機会になったと思えるようになるもしれない。これからも自身の身に起きた出来事を文章にしていく。その行為の最中は、少しだけ悲しみが薄れていくような気がするから。
いいなと思ったら応援しよう!
