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文章でいまを残す人、インスタグラマーになりたい人

マクドナルドのポテトすら写真に収める人がいる。友人はどこに行っても何をしててもスマホを取り出し、写真に収めているらしい。インスタには、リア充と呼ばれる類の写真がいっぱいあった。友達との旅行写真、スタバの新作、おしゃれなカフェで撮った写真、結婚式の写真など、見ているだけでお腹がいっぱいになる。

僕も食べ物を写真に収める機会は多いけれど、どこでも写真を収めるわけではない。彼のようにマクドナルドでは写真を収めないし、インスタにアップするような写真はたまにしか収めないようにしている。それは他人に見られる写真よりも、自分だけが楽しめる写真を撮りたいと思っているからだ。その代わりに文章を書く。今日何があって、どんな感情になったかなど、後で振り返ることができるように、ありとあらゆる経験を文章に残しておくのだ。

年を重ねるごとに、不器用だからで許されないことが増えた。世の中を知れば知るほどに、生きづらさは増えていく。うまくいっていると安心しているときほど落とし穴にハマり、失敗ばかりだと嘆いているときほど沼から抜け出せなくなるものだ。ネガティブがさらなるネガティブを誘い。行きすぎたポジティブも同様にネガティブへと誘う。こんなはずじゃなかったともしもが交錯する日々。後悔はあれど、それすらも文章に書き連ねることで、納得感へと昇華していた。

自分の経験を文章にする行為は、人生の棚おろしだと思う。病めるときも健やかなるときも、いつだってこの人生は文章と共にあった。これまでにたくさんの文章を読み、書くことで救われてきた。自分の経験を文章にするのは簡単ではないため、それなりの修練が必要となる。いまの感情をうまく表現する言葉がなかなか見つからず、書いた文章を何度も消してきた。

才能がないからやめちまえ、本当に文章が下手など、ありとあらゆる非難を乗り越えて、いまがある。振り返ると非難の言葉は、お前が文章で食っていけるわけがないと、失敗するであろう自分との出会いを避けるために伝えてくれた言葉なのかもしれない。そう考えると、非難の言葉にも感謝できるし、あの言葉があったからこそ、負けず嫌いな僕は文章を書いて生きているんだと思う。

僕とは真逆な友人は、ほとんど文章を書かない。インスタに写真を上げるときもひと言で上げてしまう。その文章はあまりにも浅いけれど、彼にとって文章はそれほど重要なものではない。文章に残すよりも、写真に残すことを選んだ友人の生き方はとても眩しく、少しのうらやましさが含まれている。

以前、友人と古本屋さんに行ったときの話だ。僕は小説を買い、友人はインスタグラマーの本を買っていた。インスタグラマーの生き様が気になるらしいが、まったく興味がない僕は「それ面白い?」と彼に尋ねてみた。すると「インスタグラマーに憧れてるんだよね」と返ってきた。予想どおりの返答に少し頬が緩む。友人はインスタグラマーの生き様に憧れているのではなく、インスタグラマーになりたいだけだった。

いま、行きつけの喫茶店で文章を書いている。友人が目の前にいれば、きっと天井に吊るされた大きなランプや壁に貼られた誰が書いたわからない絵画、透明なグラスに入ったアイスコーヒーを写真に収めて、インスタにアップするにちがいない。そして、僕は写真ではなく、文章で今日の思い出を記しているのだろう。

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