見出し画像

なんの変哲もないただの朝

朝5時に起きて、ベランダから空を見ていた。月は影を残し、太陽は眩しく光っている。ベランダからはランニングをしている人や出勤している人、談笑しながら楽しそうに自転車を漕いでいる人が見えたけれど、やっぱり人影はまだまだ少ない。それぞれがそれぞれの目的地へと足を運ぶ。今日が勝負の日の人もいれば、なんの変哲もないただの日常を暮らしている人もいる。

日光を浴びる時間は特になにかをするわけでもなく、ただ空を眺めるだけの朝の至福のひととき。朝の目覚めとほぼ同時に日光を浴びて、眠っていた体をゆっくり起こしていく。ふと耳を澄ましてみると、蝉の鳴く声がする。人間は寝ている人が大半だというのに、蝉の朝はとても早い。蝉の鳴き声が少しうるさいと感じながらも、本格的な夏の始まりになにかを期待している自分がいた。

でも、なにに期待しているのかはわからないし、なにに期待していいのかもわからない。それになにも起きないかもしれないし、なにかが起きるかもしれない。起きた出来事が嫌なことだったら悲しいし、楽しいことだったらとても嬉しく思う。そして、なにも起きなかったとしても、あいも変わらず人生は続くし、地球も自転し続ける。

そういえば空の青さを知る人は空の暗さを知っている人という言葉を耳にしたことがある。これは空を人生にたとえた比喩表現だ。楽しいばかりじゃその楽しさはつまらなく思えてしまうし、悲しいばかりじゃ楽しさを知ることができない。何事もバランスが重要で、前のめりばかりじゃいつか転んでしまうのがオチだ。

人生にはいいことがあれば、悪いこともある。いいことの割合は51で、悪いことの割合は49だ。いいことの割合の方が多い理由は、人々が神社で行う祈りが神様に通じた証拠でもあるんだろう。祈りは諸説では、じぶんではどうにもならない絶望だとも言われている。たくさんの人がいいことがあって欲しいと神様に願う、あまりの祈りの多さに神様は気を利かせて、人生のいいことの割合を少しだけ増やしてくれたのだろう。もしも神様がいいことの割合をお増やしてくれているのなら、祈りは希望になっていると信じたっていい。

人生に暗雲が立ち込めるときは、悪い出来事が起きたときか自分が疲れているときだ。そういうときに限って、マイナス思考に陥りがちだし、そこからはなかなか抜け出せないものだ。下に落ちるときはとことんまで落ちて、落ちる場所がなくなった時点で、這い上がる努力をすればいい。そして、なにより悪い出来事はいいことが起きるための伏線で、その伏線を回収するために、その先の人生がある。前向きに生きすぎるのも疲れるし、後ろ向きに生きすぎるのもやはり疲れてしまう。またここで何事もバランスが重要だと思ってしまった。

朝からなにを考えているんだと思って、家に置いているお花に水をやる。そして、いつもどおり朝の散歩に出かける。家の下の公園に集まる猫。猫とは目線がよく合う。でも、僕を見つめるあの目はいつも人間を警戒している目だ。その証拠に家の下の公園にいる猫に近づくたびに、いつもどこか遠くへ行ってしまう。餌をあげない限りは、僕たちはきっと仲良くなれないんだろう。悲しいけれど、世の中はギブアンドテイクだと痛感したそんな朝。



この記事が参加している募集

ありがとうございます٩( 'ω' )و活動資金に充てさせて頂きます!あなたに良いことがありますように!