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苦労しているからえらいわけではないよ

ベーチェット病が発症して、2年半が経った。発症当初は人生が終わったと絶望していたのだけれど、蓋を開けてみるとやっぱり人生は楽しいとなっている。

2年半の治療の甲斐もあって、症状は落ち着きある。それでもいつどうなるかわからないという時限爆弾を抱えたまま生きることに心が参りそうなときがある。低気圧のときは決まって体がだるくて、なかなかベッドから出られない。難病になるまでは低気圧に左右されたことはないのに、うまく動かせないこの体に憤りを感じる。それでもこの体で生きていかなければならないし、どれだけ嘆いても失ったものは取り戻せない。

右目の視野が半分なくなったため、誰かと歩くときは右側に来てもらうようにしている。左目では文字が読めなくなった。幸いにも視力はかろうじて残っているため、右目の視野の補助として役立っている。白内障にかかったため、近くは裸眼、遠くは眼鏡と状況によって眼鏡の付け外しを行う必要があるのがめんどくさい。それでも気にせずに接してくれる人ばかりが僕の周りにいて、恵まれていると実感してばかりの日々だ。

難病の話をする際に、かわいそうだと言われることがある。確かに難病によって失った代償を考えるとかわいそうなのかもしれない。もし僕が健常者だったら、きっとみんなと同じようにかわいそうだと思うのだろうなとも。みんなの反応は間違いじゃないし、紛れもなく事実なんだと思う。

加えて、よく頑張っているという言葉もよくもらう。自分でも頑張っているとは思うのだけれど、それが偉いとは思わない。生きるために必要なことをしたまでの話で、誰もが生きるために何かを頑張っていて、僕にはそれが難病と向き合うことだったにすぎない。きっとみんなが同じ病気に罹ったら同じように頑張るはずだ。だから、目の前のことに向き合うのは当たり前の話なんだと思う。

幼少期に思い描いていた自分像とはかけ離れた今を生きている。もっとやれたことはあっただろうとも思うし、悔いがないとは言い切れない。同じ人生をやり直したいかと問われたら、僕は確実にNOを突きつける。さまざまな困難を乗り越えたその事実は立派なのかもしれないけれど、また同じ体験を乗り越える自信がない。僕はその程度の人間なのだ。

難病の話をする際に、強いと言われることもあるけれど、前を向くまでに時間がかかるただの弱虫野郎だよ。難病を受け入れるのに1年半もかかったし、今も目に見えない不安に襲われる日がある。全然立派な大人になれていないし、幼稚じみたところも多い。とはいえ、今の人生はそれなりに気に入っていて、俺の人生は捨てたものじゃないと心の底から思っている。情けない自分の周りには心強い人たちがずらりと並んでいて、助けられてばかりだ。どうして自分を助けてくれるんですか? と一人ひとりに問いたいところだけれど、そんな野暮な質問をするなと一蹴されるのが目に見えている。

たまに自分には挫折体験がないと悩んでいる人の話を聞く。そういう人は一体何になりたいのだろうか。挫折体験がない人生は羨ましいと思うし、それは自分がうまくやってきた証でもある。たくさん苦労をしたからといって、人間として成熟できるわけでもないし、偉いわけでもないと思う。誰しもがそれぞれの苦しみを抱えていて、そいつが目の前に現れることに怯えている。もしかしたら杞憂に終わるかもしれないし、それが自身の最大の友になる可能性だってある。

きっと大切なのは、どんな運命が待ち受けていようとも自分なら乗り越えられると思いだ。運命に立ち向かっているときはどれだけダサくてもいい。かっこ良くなるまでの過程はいつだってダサいもので、その道のりを愛せるような人でありたい。これから先も数々の困難が僕を待ち受けているはずで、そのたびに嘆いてばかりの日々を過ごすのだろう。でも、最後にはかっこいい自分が立っているにちがいない。そして、人間的に成長していたらいいな。

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