㉓乱読について
おはようございます。
今日は乱読について考えていこうと思います。
乱読とは、簡単に言うと、好きな本を好きな時に気ままに読み進めていくことです。
この乱読という考え方は、先日亡くなられた外山滋比古先生の著書で知りました。
(外山先生の本は何冊も拝読しており、大変お世話になりました。直接的な関係は全くないし、身近な人ではなかったけど、亡くなられた時は、悲しい気持ちになったし、ご冥福を祈りたくなりました。赤の他人に対して、こんな感覚になったのは初めてでした。外山先生も自分を構成する一部になっているということなのかな。不思議な話やけど。)
読書を始めた当初は、
「この一冊をしっかり読み切ってやろう」
と意気込んで本を購入し、必死に食らいつくように読書をしていたように思います。
ただ、本の内容を楽しむことが大事であるはずなのに、だんだんと、読書すること自体が苦痛になっていました。楽しいといった要素はほぼゼロで、今思うと読み切ったったぜみたいな達成感を重視していたので、読後はいつも燃え尽きるような感じでした。
(「これを読み切らなければならない」)
(「まだこんだけしか進んでいない」)
(「はよ読まな次に進まれへんぞ」)
といった、一種の自分を脅迫するような心のつぶやきが姿を現すようになっていました。その結果、たいてい本を読むことをやめてしまい、読書と距離を置くといった悪事循環の中に居ました。
僕は、周りに普通にできている人がたくさんいて、でも自分はできなくて続かないという物事に対して、必要以上にコンプレックスを感じてしまう性癖があるので、ずっと
「読書を継続できる人が世の中にこんなにいるのに、なんで自分にはできひんのやろう」
という想いを抱いてきました。自分には向いていないと思うこともあったんですけど、一方で
「それにしても読書ができひんってなんか悲しくないか。人生において」
と自分に問い続けていました。
また、サッカーばかりしかしてこなかった自分にとって、本を読む事を楽しいと思えたら、お金をあまりかけずに、一人でも楽しめる趣味を、いつでもどこでも死ぬまで続けられるということで、物凄い魅力を感じていました。
今では有り難い事に、毎日本を読むことが習慣になっています。
ただ、なぜそれが習慣のようになったのか?と考えると、要因はいくつか考えられる中で、一つがこの乱読を始めたからだといえると思います。
外山滋比古先生は著書の中でこう言っています。
気の向いた本を、手当たり次第に読むのは、たのしいが、それだけでなく、面白い発見もある。知的刺激ということからすれば乱読にまさるものは少ないようである。
妙に力をいれるのではなく、風のように読むのがおもしろい。
乱読がおもしろいということを考えた。
『乱読のセレンディピティ』p.4 外山滋比古
この本に出合う前からなんとなしに、乱読のようなことはしていました。
並行読書というのか、一冊にこだわらず、ジャンルも越えて、小説や新書など4~5冊を同時並行で読み進めていくといった感じでした。
こんなスタンスでいいのか、と自問自答しながらも、合わなかったらまた考え直したらいい、という考えでやっていました。
そもそも、
まずは、読書とは?という問いから始め、本を読むこと自体について考えました。
結局は、楽しければ意味がない。
では、楽しむためにはどうするか?
おそらくこれまでの一途読書のままでは、うまく続かないし、だからといって、続けることを目標において、とりあえず本を一日数ぺージみたいな形で取り組むのもなんか違うな、と思っていました。
周りに本を読む習慣のある人がいなかったので、どうすればいいのか?ということを聞くこともできず、自分で考えて、探し求めざるを得ませんでした。
結果的に自分自身でなんとなくこうかもしれない、といったものを見つけることができたので、ラッキーな境遇だったと今は思います。
そんなことを考えていたので、当時は、読書に対する考え方を書いた本をよく読んでおり、並行読書を始めていました。
そこで、この本の乱読という考え方に出合い、目から鱗が落ちるような感じでした。
並行読書でもまだぬるかったのかと。
読書ってもっと自由でいいんだということに気づかされました。
外山先生の言う乱読において抑えておくポイントは2つあると思います。
1つは、
気の向いた本を、手当たり次第に読む
つまり、興味の鮮度を大切にするということです。
そしてこの興味の鮮度には、移ろいやすく、また気が向いた瞬間が最も興味の鮮度が高いという法則があります。
興味・関心といったものは、時代や年齢の変化のみならず、1秒1秒の変化の間に移ろっていくものだと思います。だから、1秒後に自分が何に気が向いているのかはわからない。とはいえ、気が向いた瞬間が興味ボルテージMAXの状態でもある。そうなってくると、気が向いた瞬間を察知し、その瞬間に行動に移すということが鉄則になってきます。
それが読書でいう、気が向いたときに、手当たり次第に読む、ということだと考えます。
この興味の鮮度に着目し始めたことで、自然と本に手が伸びるようになったり、飽きたとしても、また違う本を探す切り替えの早さにつながっていると思います。
あと、
今自分の興味は何に向いているのか?
という傾向と変化を知ることができるという楽しみがあることも発見しました。
2つ目は、
妙に力をいれるのではなく、風のように読むのがおもしろい。
つまり、無理に頑張ろうとしなくてもいいということです。面白くなくなったらやめたらいいし、忘れても全然いいよということです。
特に外山先生は、どの著書においても、忘れることの重要性を説いています。
いくら知識がふえても、どんどん忘れていけば、過剰になる心配はない。忘却は大切なはたらきであることに気づいた。忘却が活発であれば、知識過多になる心配はない。忘却がうまく働かないと、それほど摂取知識が多くなくても、余剰知識がたまって頭の活動を阻害するおそれがある。よく忘れるということは、頭のはたらきを支える大切な作用であると考えるようになった。
『乱読のセレンディピティ』p.186 外山滋比古
本に時間をかけたのに、内容を忘れるなんて、時間の無駄だ!と声高に叫ぶ人がいるかどうかはわかりませんが、費用対効果・時間対効果的なコトを考える人も少なからずいるのではないかと思います。だから、
「せっかくお金かけて買って、時間をかけて読書するんだから、覚えよう覚えよう、忘れてはだめだ」
と力んでしまい、最終的に読書おもんねーとなっていきます。かつての僕もその一人でした。こういった考えを強固に持つ人にとって、読書は無駄な時間で、本は不必要でお金をかける価値ナシということになってしまいます。
しかし、そもそも本を読むことで、すぐに何かを得られるという考え自体がおこがましい事で、期待をしすぎるのはよくありません。今すぐになにかが変わるわけではないけど、無駄ではないし、忘れてもそのうちなにかしら頭にひっかかりができて思い出すこともあるだろう、くらいで構えておけばいいと思っています。
これが、風のように読むという意味ではないかと思います。
知らないことも知っていることもどんどん蓄積すると同時にどんどん忘れて、時間をかけて寝かしつけておくことで、ある時ふと何かに思い至ったり、気づくことができ、つながりを感じる。それが読書のひとつの醍醐味だと思っています。これを、外山先生は、乱読のセレンディピティと呼んでいます(僕の解釈では)。
と、調子に乗って解説してしまったこともありますが、
シンプルに
気が向いた本を、気が向いた時に、気が向いた分だけ読む
ことだけ考えて、あとはそれを繰り返していれば、おのずと本を読むことが楽しくなってくるのではないかということでした。