㉜何かひとつのことを持ち帰るという感覚
おはようございます。
小学生の頃からサッカーをしてきた中で、よく
「今日一日、何か一つでもいいから得よう」
ということを言われてきた。
その意味がいまさら分かってきたような気がする。
昨日も市営のプールに行った。
相変わらず泳ぎは下手くそだが、一日一日向上しているのがよくわかるようになってきた。
その要因は二つあると考えている。
1つは、身体が柔らかくなってきていることだ。それによって、本来の動き方ができるようになってきている。
この本来の動きというのは、自分がもともとできていた動きという意味ではなく、身体が自然と動きたいように動くという意味合いだ。やはり、身体はすでに知っているのだ。
ここ半年間の取り組みの成果がまさかの水泳に出てきている。半年前は水泳をやっているなんて夢にも思わなかったのに。
水を蹴る感覚や肩を回す感覚がすんなり入ってくる。
今まで本当にひどい泳ぎ方をしていたのだなとつくづく思う。いつ溺れ死んでもおかしくなかったと。
2つ目は、隣のレーンにいるおじさまおばさまたちのおかげである。
教えてくれる人がいないので、一人でもくもくと泳ぎ続けることになるのだが、隣でも自分と同様にもくもくと泳いでいる方がおられる。
年齢はだいたい50~60代くらいなのだが、それがもうびっくりするくらい優雅にスマートに泳いでいる。それもノンストップで何往復も。僕なんて、25mを一本泳いだだけでゼエゼェ言ってしまうのに。
「なんでこの人たちはこんなに疲れずに延々と泳ぎ続けられるんだろう。お年なのに」
と毎回思う。そのたびに悔しくなり、なんか腹が立つ。
潜りながらお師匠たちの泳ぎを観察するのだが、(怪しまれると思うが、もうご高齢なのでいいんじゃないかと勝手に思っている。)学ぶところが本当に多い。
それをひたすら真似る。学ぶとは真似ぶことであると昔の偉い人が言っていた。
真似てみることで、少しづつ感覚がつかめるようになってきた気がする。この感覚も自分に合っているのかどうかは定かではないので、繰り返し確認と修正をしていかなければならない。
でも、最終的に合っていても合っていなくても、その日のうちに何か一つ感覚をつかむということが大事なのだ、きっと。
これが何かひとつのことを持ち帰るということなのだろう。
そのためには、上手い人や参考になる人をひたすら観察して、真似てみて、自分で考えてみるというプロセスが必要になってくる。
いや、下手くそだなと思う人のダメな部分を自分と照らし合わせて、試してみるのもありだと思う。
自分自身で掴んだ何か一つのことを日々積み重ねていくことが大切なのだ。ここで掴んだものは完全に自分だけのものであり、共有もできないし、譲渡もできない。
やり方を共有することはできるが、感覚を伝えることは不可能だ。しかもその感覚は各々で感じ方が違ってくる。
この積み重ねはある意味で孤独であるのだが、一方で自身の成熟には必要不可欠な事だと思う。
教えてもらうことには、功罪がある。
功は、新たな視点をキッカケにすることができる。
罪は、自分で考えて試すことでしか得ることのできない自分なりの方法をカットしてしまう危険性がある。
なににせよ、自分で試して都度考えることが出来るのならば、教えてもらう事も非常に有効だ。行き詰っている時に異なる視点からのアドバイスをもらうことは、変化のキッカケを生む。
いずれ僕も一人やっているとどうしようもなくなるときが来るかもしれないので、その時は横にいるお師匠さんに尋ねてみようと思う。最終手段なのでできるだけ封印しておくけど。