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一本のミドルシュートが教えてくれた大事なこと


おはようございます。

更新は一時休止ということでしたが、サッカーのことは書きたいので更新します。


昨日は、2週間ぶりに社会人サッカーリーグの試合でした。
結果は、大勝。
チームとしては、相手があまり強くなかったことを差し置いても攻撃と守備が上手く機能していたと思います。
来週はリーグ1位のチームとの試合なので、次につながる闘いができたのではないかと思います。


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僕はリバプールの英雄、スティーブン・ジェラードが大好きでした。
特にジェラードの豪快なミドルシュートが大好きで、中学生の頃に当時のガラケーで15秒ほどの動画を何度も何度も見返しました。そして、僕もジェラードのような目の覚めるようなミドルシュートを打ちたいとずっと願い続けてきました。


https://www.youtube.com/watch?v=HDO7bY70Hac


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昨日の試合は、
18年間サッカーを続けてきた自分にとって特別な日
になったと思っています。
もっと言えば、これまで生きてきた26年間という人生の中でも特別な日だと思っています。




一本のミドルシュートを決めました。

そして今までコツコツ地道に誰にも知られることなくやってきたことが成果という一つの形に集約されていく感覚を初めて味わいました。
良く思われたいとか、誰かのためなどといった欲求とは離れた、自分のため純度100%の取り組みを続けてきた積み重ねが結実する喜びでした。そして、それが結局まわりまわって誰かのためになるのだという確信を得ました。

思えば、これまでの人生において、承認欲求(あまりこの言葉は好きじゃない)を抜きにして続けてきた努力はなかったです。サッカーにしても、受験勉強にしても、英語にしても、海外バックパッカーにしても、仕事にしても。
誰かに褒めてもらうためや喜んでもらうためにやってきました。でも結果的に自分のためになったなとか成長したなと思えるようなことはほとんどなかったように思います。(それでも必死に頑張ってきたことは学びなおすキッカケにはなってる)
それゆえに自分に満足できずに、もっともっと周りや他人からの承認を求めるために頑張っていく。そして燃え尽きるという負のループにどっぷりはまっていました。

でも、昨日のミドルシュートから感じたものは、これまでにない種類の感動や喜びで、自分の中に大きな変化をもたらしたと思っています。うすうす純度100%の継続が大事なのではないかと気づいていましたが、成果として目に見える形で現れたことで、確信に変わりました。これがより良く生きていくために大事な感覚なんだなと思いました。


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それを感じた瞬間は、25mくらいのミドルシュートが綺麗にゴール隅に決まった時でした。
これまでのサッカー人生で最もやりたくて、最も苦手なプレーが、偶発的ではなく、自己と日々の積み重ねによって実現したと確信できたワンプレーでした。


ずっとできるようになりたかったのです。
憧れのスティーブン・ジェラードのような豪快なミドルシュートを決められるように。
ただ、これまでの取り組み方が不十分だったことで、自分はジェラードのようにはなれないし、ミドルシュートのセンスはないんだと早々に諦めていました。



自分の中で、本当にいろんなものが詰まった一つのプレーでした。
その瞬間に味わった感動は、爆発的で歓喜的な喜びではなく、じんわりしみじみと身体全身に染みわたっていくような喜びでした。気抜いたら泣きそうになるような。

正直、どのようにしてシュートを打ったのかという記憶はあんまり残っていなくて、身体が自然に動いた感じでした。誰からパスを受けたかも覚えていないし、どのような足の振りでボールを蹴ったのかも覚えていません。覚えているのは、綺麗なライナー性のボールが目の間に現れて、左隅のポストに当たってギリギリゴールラインを割ったシーンであって、それ以前の記憶がぼんやりしています。

ただ、
そのプレーが生まれるまでの小さな要因は覚えていませんが、そのプレーを実現するために日々積み重ねてきたものはハッキリと自分の中で確信性を持って言えます。



大きく2つあります。

1つは、身体の柔軟性です。
これは今年1年の大きなテーマであり、サッカーに限らず、日常生活においてもずっと大事にしていきたいと思っていることです。
1日1日の身体の変化やできるようになってきたことを感じながら、日々身体と向き合っています。

「柔軟性がアップした事によって、ミドルシュートが綺麗に決まった」という結果に対する要因を説明するには、あまりにも複合的な要素が混在していると思っています。

例えば、
「柔軟性がアップしたから、身体をばねのように使えて、力強いシュートが打てた」というのはわかりやすい説明のひとつです。
他にも、
「柔軟性がアップした事で、走り方やひとつひとつのプレーが省エネになり、疲労を感じなかったことで、そのスペースに走り込めた。」
「柔軟性がアップした事で、姿勢が良くなって、状況を冷静に見渡せることで、そのスペースとゴールを視野に入れることができた。」
などが挙げられます。
柔軟性アップからミドルシュートを決めるという帰結へ導くための細かなプレーの要因はひとつではありません。全部あると思います。
逆に、柔軟性アップひとつでここまでできることが増えたとも言えます。ある意味で、革新的な取り組みだったと言えます。すべてのプレーに良い影響するのですから。
ここに挙げてる要素だけでも、十分と言えるほど、自分がやってきたことは正しかったと思えるし、今後も続けていこうと思えます。

また、柔軟性への取り組みが「いや、自分はミドル打てるし、感触も良いぞ。あとはその瞬間が来るのを逃さず待つだけ」と思えるようにしてくれたと感じています。この確固たる自信をもたらしてくれたことが最も大きなことでした。これまでやりたかったけど苦手としていたミドルシュートでしたが、身体が良く動くようになるにつれて、キックの感触が良くなっていると感じていたし、「いけるぞ。」と自分自身の中で確信性に満ちた根拠から生じる自信を掴んでいました。今は上手くいかないけど、いつかきっと、それも近いうちにその時がくるとほぼ信じきっていました。そして、その瞬間が訪れたという感じです。強く信じることができたのです。

柔軟性というテーマを追求していく中で、様々なやり方を試してみました。身体に関する本を読みあさったり、YOUTUBEで動画を観る。そして自分で実践してみて身体の感触を感じ取ってみるという作業でした。その度、これだ!というやり方を実践、継続しては、ある程度時間が経つと変化していました。
6月、7月頃に「これは身体にいいわあ。今まで俺は何をやっていたんや。」と思って取り組んでいたことが、今ではひとかけらも存在していません。次々と新たなやり方が出てきて、その度に「いやこっちの方が良くね?」よ一新してきました。いろんなやり方を調べて、実践していくことを繰り返すことで、それとなく自分に合っているやり方に向かっているような気がします。取り入れなかったやり方も、それは自分に合っていない or もっと合うやつがある と知れたことで、今後の柔軟性追求に間違いなく役に立っていると思っています。ちなみに今のやり方は、新しいやり方とこれは良かったなというやり方のハイブリッド型になっています。


もう一つが、止まる、待つ、空けるの実践です。
ミドルシュートを打つ前の記憶がおぼろげだという話を冒頭にしましたが、シュートを打つ際のスペースを空けていたことだけはうっすら覚えています。味方がPA外のスペースの方向を向いていたので、ボールを受けに行くためにそのスペースに自然と身体が走り込んでいった感覚でした。常にミドルシュートを打つイメージは持っていて、その状況が来るのを待っていました。結果的に、一度ボールを止めて、余裕を持ってシュートを打つことができました。

この止まる、待つ、空けるというのは、言い換えれば”頑張ることを止める”ということです。
まず、止まってみるということを考えるキッカケとなったのは、前回の試合でした。いつも無理にツッコんでボールを奪いに行っていたところを、少し我慢して止まってみて、じっくり相手を見てたら自然と無理なくボールが取れたというシーンがありました。それまでの僕は、ただがむしゃらにボールを追いかけたり、前にスペースがあったら問答無用でとりあえず入り込んでいったり、と妄信的に走るいわゆる”頑張る”タイプでした。正直、”頑張る”ことを続けるのは精神的にも身体的にも辛くて、しんどかったです。これは高校時代の監督の指導が完全に身についてしまったところが大きな要因で、それから”頑張って”ボールを追いかけたり、走ることが大事だと疑うことなく自分に言い聞かせてプレーしてきました。
でも、前回の試合をキッカケに止まってみる、待ってみる、空けてみることが実は大事なのではないかと仮説的に考えるようになりました。(今の生活も、ある種、止まってみるの実践だなと思っています。これまでの人生は常に何かに追われて突っ走っているような感覚がありました。サッカーに限らず、人生においても止まることはおそらく大事だろうという確信を今は持っています。そこまで広げると話が長くなるのでまた今度機会があれば)

そして、この仮説をさらに確信に推し進めてくれたのが、高校サッカー選手権大会滋賀県予選の試合でのある選手でした。たまたまYOUTUBEで上がっていて観ていたのですが、その中のある選手がもの凄く印象に残っており、ネットで調べたりしました。まだ無名の選手ですが、プロのスカウトも密かに注目しているという事で、少しだけインタビュー記事が挙がっていました。その中で、この選手も、止まってみる、待ってみることを意識していると言っていました。「ボールを受けるためにはまず受ける態勢と良い状況を作り出すことが大事で、そのためにむやみにボールを受けに行くのではなく、相手選手の動きの矢印をみて、その逆を取るように、自分のポジショニングを考えている。その中で止まることも大事にしている。」といった内容のことを話していました。実際にその選手のプレー動画を見ていても、たしかにその考えが垣間見えるシーンが多くあり、非常に安定したプレーを披露していました。挙句、同点で迎えたラストシーンで自ら得点を挙げて結果を出していました。素直に、「すげえ、かっこよすぎる」と思いました。残念ながら、準決勝で敗退してしまったので全国で見ることはできないですが、大学進学後、おそらく彼はプロになるのではないかと思っています。

少し話が逸れましたが、前回の試合のキッカケとこの選手のプレーから、止まってみる、待ってみる、空けてみるを次の試合の大テーマにしようと決めました。
実際にやってみると、これまでいかに自分が無駄な動きをしていたかということに気づかされました。これまでは、ボールが欲しいという想いや、味方を助けなければならないといった義務感でボールをむやみに受けに行ったりしていました。そこでボールを失ったり、相手のプレッシャーを感じるところでボールが出てきたりしたときに、味方のパスのせいにしていた部分もありました。
でも、昨日の試合で、それは間違いだったのだと気づきました。相手の動きの矢印を見て、それに合わせて自分の最適なポジショニングと身体の向きをとることが結局、自分だけでなく、味方も救うプレーなのだと気づきました。そのためには”頑張って”ボールを受けに動くのではなく、冷静に相手の動きを見て、相手の動きの方向の逆に少し動いたり、時には止まったり、スペースを空けておいたりすることが非常に効果的だと実感しました。小さな動きなので、身体的には疲労にならないし、ボールを受けた時も周りに敵がいないので精神的にも余裕ができる。味方も安心して自分のところにボールを入れられる。ああ、これが適正なポジションをとるやり方だったのかと、自分のなかでは大発見でした。

また、”頑張って”やってきたことが決して無駄だったわけではないと思っています。キッカケとして前回の試合や高校サッカーの選手がありましたが、この発見と即実践に繋がったのは、”頑張って”やってきたことが根底にあるからこそだと思っています。
それは、主に”頑張って”走ってきたことや、”頑張って”首を振ってきたことです。この2つは小学生の頃から今まで一貫して意識してやってきました。迷いなくこれが正しい事だと信じてやってきました。無意識レベルでできるまでやってきました。この信じてやってきたことが、一つのキッカケで実を結んだと思っています。そもそも走れなければ、止まってみよう、待ってみよう、空けてみようと調整することができないし、首を振って周りを見えていなければ、ここは止まろう、ここはいったん待ってみよう、ここはあえて空けておこうという状況判断はできないからです。”頑張って”走る、”頑張って”首を振るという必要以上に頑張ってきたコトは、それだけではただの無駄でしかなかったと気づくと同時に、その無駄なことを積み重ねてきたおかげで、小さなキッカケでの発見を即実践に繋げられたのかなと思っています。

さらに遡ると”頑張って”走ることは、高校時代の監督の影響だし、”頑張って”首を振ることは、高校時代のとある練習試合での相手選手を見てから意識してきたことだなあ、と積み重ねと繋がりを感じています。これを感じることができると、自然と有り難いなあという感謝の念が沸き起こってきます。高校時代の監督好きじゃないけど、不思議なもんだなあ。
この感謝の念は遡るとキリがないですね。




長くなりましたが、昨日の一本のミドルシュートから感じたことを、これまでの人生を振り返りながら書いてみました。
正直、ジェラードのことを思い出したのは、完全に後付けです。こうして書きながら、過去を振り返っていると、自分のサッカーの原点に辿り着いたといった感じでした。
「そういえば、俺ジェラードのことめっちゃ好きやったな。ミドルシュートえげつなかったな」と思い出しました。
そして、サッカーにおいて、最も心を動かされたのが、ジェラードのミドルシュートだったと思い出しました。
「ここにきて、そこに舞い戻るんかいっ」と自分でも突っ込みを入れたくなりますが、長い時を経て、原体験的にずっと憧れだった選手の憧れのプレーがまがいなりにも自分にも少しできたと思うと、なんか、嬉しくなりました。言葉では言い表せない喜びを感じました。



そして、あの一本を通して、
”頑張る”コトから、解放され、楽しむコトを取り戻したと思っています。
これはサッカーだけではなく、あらゆることに応用できると思っています。
誰かのためにとか、チームのためにとか、主将であるからとか、これまで背負わなくていいことまで無理にしょい込んで、自分を苦しめてきました。
もちろん、頑張ることがダメなコトだとも思わないし、責任感を持ってプレーすることも大事だと思います。
でもまず、自分に集中して自分自身が楽しむところから始めて、楽しめるような状態に持っていくことが一番大事です。それができて初めて、責任感や頑張ることが出てくるのだなと今は思います。
自分自身の課題を楽しめる自分が根底にないと、すべてのことが苦痛になってしまいます。
そして、僕が楽しめるようになったのは、頑張るポイントを変えてからでした。目に見える所でがむしゃらに頑張るのではなく、思考することを頑張る。冷静に居られるようにするにはどうしたらいいのかを考えることを頑張る。良い状態でいられるようにするにはどうすれば良いのかを考えることを頑張る。すると、それが結果的に自分も味方も救っているということに気づきました。「あれ、なんか楽しいぞ」と思えるようになりました。
そして、良い状態でいられるために、柔軟性アップと止まる、待つ、空けるの考え方が自分にとって大事なんだという事をやっと掴み取れたような気がします。


あと大事なことは、武器にすることです。昨日のミドルシュートがたまたまではなく、いつでも打てて、コンスタントに結果として出せるものにすることです。再現性のあるものにするということです。そのために必要な事は、これから探求していきたいと思います。現段階では、結局いかに良い状態を作れるかに懸かっていると思っていますが、おいおいゆっくりと確信あるものを見つけられたらいいなとおもっています。最新のnumberでダルビッシュが近しいことを言っていた気がします。




18年もサッカーをやってきてやっと気づいたのかよと思います。あれだけ必死に頑張ってやってきたつもりやったど、今さらかよと。
でもそれよりも、やっと掴んだという喜びの方が断然大きいし、それは18年間、無駄にサッカーを小学生から辞めずに続けてきたことで、また新たな発見や楽しみを見出すことができているのだと思っています。長い時間をかけて見つけたからこそ、深みがあって喜びも大きい気がします。

サッカーにおいての成長は自分にはもうないかなと思う時もありましたが、続けてきてよかったと思っています。
今が自分史上一番上手い、充実していると思うし、これからもまだ上手くなれると思っています。歳をとって動けなくなる時期も必ず来るけど、その時はその時でまた新たな喜びの見つけ方があるのだろうなと思えます。
そして、サッカーは、プレー面だけでなく、人間的に成長させてくれるものだと信じています。サッカーを通して得たものは、あらゆる分野や、今後の将来に活かされると信じています。





一度掴んだものは、死んでも掴み続けろとある選手が言っていたのを思い出したので、忘れないように、そしてこれからも掴み続けられるように書き記しておきます。




これからもサッカーと人生をエンジョイしていきたいと思います。

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