「和賀英良」獄中からの手紙(14) とほかみえみため
―放浪のなかで―
父と私は二人で家の戸口に立ち、祝詞の言葉を唱えて物を乞い歩きました。
「ほかいさん」「ほかいびと」などと呼ばれていましたが、まったく受け付けてもらえない家もありましたが、たまに歓迎してもらって、米やまんじゅうなど頂くこともございました。
ある時などはもう九十歳にも手が届きそうなおばあさんに
「ほかいさんか、まっことありがたいこっで」
と涙ながらに言われて、かなりのお金をもらったことがあります。
また広島の山中で父の千代吉の具合が悪くなって道端で難儀をしていると、通りかかった山の民がこっちで休めと手招きしてくれました。
先導されて獣道のようなところを進むと、木と木の間にひもを渡して簡単な布をかけたテントのようなものがあり、そこには数人の家族が暮らしていました。
そこで薬草のようなものを煎じて飲ませてくれて、親子で半日ほど休ませてもらいました。彼らは昔から山の中で生活しているようで、私たちとはあまり会話もなかったのですが、家族同士は日本語とは思えない言葉で話しておりました。
やり取りのなかで、自分たちは「ミョウガ」が大好きで、どんなことがあってもその苗は持っていて、移動する必要があるときはその場所で栽培をする、とのことでした。それは他の山の民で、木を切ってお椀やお盆を作っている「木地師」と呼ばれる集団から教えてもらったと言っておりました。
身なりは私たちと同様で質素でしたが、大変優しい心根があるようで、父の病のことも良く知っているようでした。帰り際に手編みのカゴをもらったのですが、非常に緻密に編み込まれたものだったので、びっくりしたことを覚えております。
ここではっきりと申し上げますが、私たちは流浪の民でしたが、「ほいと」と呼ばれるような「乞食」ではありません。
「ほかいびと、祝言人」は,元来は神を祝福する人々を意味しています。追い払われることもありましたが、逆に尊いものとして扱われることも実際には多かったのです。
私たちは特別に見せる芸がある門付芸人ではなく、戦国時代にいたという神社に所属せず漂泊して祈祷をする「歩き巫女」の男版のようになことをしておりました。時に応じては神道の祓え言葉や、ことほぐ(寿ぐ)つまり縁起の良い祝詞や、出雲のほうのある神社で教えてもらった「とほかみえみため」という言霊、ことだま、真言をよく唱えていました。
これは「遠くの神様よ微笑みかけてください」ということらしいのですが、実のところはよくわかりません。
神道の大祓詞の後半の「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」の後にこの祝詞の文中にはない、ある秘密のコトダマが唱えられていた、という噂があります。その秘密の言葉が知られてしまうと効力が失せてしまうので、他人に聴こえないように小さな声で「・・・・・・・・」と唱えてから、次の「かく宣(の)らば…」とまた本文に戻る。
としていたらしいのですが、この小さな声で唱えていた真言が失われてしまい、近年には何と唱えていたかわからなくなってしまったらしいのです。その秘密の言葉、コトダマが「とほかみえみため」であったと言われているのです。
この「とほかみえみため」のコトダマは非常に強力な真言のようで、いろいろな家の玄関先で頭を下げられました。「まれびと」が来たといわれて、食事のもてなしを受けたことも度々あります。だいたいそんな時は遠慮して、家の軒先や外のほうで施しをいただいておりました。
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また話は少し変わりますが、歩いていると父もすぐに疲れてしまうので「南無妙法蓮華経」と繰り返しながらお互いに進むと、不思議に疲れが出ません。
「南無妙法蓮華経、なむみょうほうれんげいきょう」
このお題目はリズムの取り方をいろいろと変えられるのです。
たとえば一歩に対して漢字一つ分を唱えると早足になり、一歩に二漢字を当てると逆にゆっくりと進みます。またそれとは違った取り方で六文字の「南無妙法蓮華経」を唱えながら、四歩で歩くやり方もあるので、面白がって歩きながら繰り返し遊んでおりました。
これについてはその後に東京藝術大学の打楽器の先生が大学を退官される際の最終講義で「南無妙法蓮華経はポリリズムであり複合拍子である」との説明をされました。自分も偶然にその場にいたものですから、父とそのお題目を唱えながら歩いた時のことを思い出して、非常に感銘を受けたことを覚えております。
特に六文字の「南無妙法蓮華経」を唱えながら四歩で歩くやり方は「ポリリズム」という多次元的なリズムの捉え方であって、アフリカのリズム感とも共通するとのことでした。
旅行く中で芸人や僧侶、修験道の山伏などと出会うことも多く、いろいろな話を見聞きいたしました。そのなかで行く先々の人家の前に立ち,家人に祝福を与え,いくばくかの金銭や米などを乞うて歩くことは、世のためになっている修行である、と思うようになりました。もちろん冬の季節や雨、雷などはたいへん辛かったですが、それも良い思い出です。
自分たちのようにある季節にどこからともなく来訪して来るこれらの芸能者や「ほかい」は「稀に来る人」つまり「まれびと」として神格を有していると思われていたようです。
ずいぶんと昔の話になりますが、縄文時代から弥生時代に移る際に大陸から流れてきた渡来人、それが日本に定住することになり帰化人となるまでは、いわゆる漂流の民であったことが想像されます。
基本的に人間は流浪する歴史が昔からあり、定住した人から見るとそれは生きる姿の原型となります。ですから現代の農耕を主とした定住民には、放浪への憧れがあるのだと思います。現在の野外活動やキャンプ、山岳登山もその憧憬の一種ではないでしょうか。こういった行動は一時的な「先祖帰り」なのかもしれません。
もっと逆説的に言うと、私たち親子のように「ほかい」で彷徨しているほうが「自然と共生」している生活で、土地に家を持って定住している人たちは「囚われの身」であるとも言えるでしょう。つまり放浪や狩猟で生きていけないために「定住」を選択せざるを得なかったのです。
私たちが各土地で排除されるだけでなく歓迎される場面があったり、ありがたがられたりした、ということは、そういった流浪の民であったサンカや木地師などの幻影やその土地の神、地霊(ゲニウス・ロキ)との無意識の共鳴が、いま目の前いるみすぼらしい身なりをした「ほかいびと」に暗示されていたからだと思っております。
私たち親子もそういった古代からの幻影を喚起するものがあったからこそ、その姿を見て泣いてくださるかたもいたのでしょう。
蒲田の事件が映画になったそうですが、その後半は私たち親子が全国を貧しい身なりで放浪する映像がほとんどだと聞いております。その場面を見ながら号泣する方も多いと伝え聞きまして「民族放浪の原型」のことを考えている次第です。
長々と自説を語ってしまいました。
乱文を失礼いたしました。
第15話:https://note.com/ryohei_imanishi/n/n6956a2c045c9
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