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№6 これまでの順子さん ~側杖~

僕の妻の順子さんは、「多系統萎縮症(MSA)」という原因不明の難病に罹患しています。

世の中には、見ているはずなのにもかかわらず「見えないもの」があります。世の中に存在しているのに目につかないものがあるのかもしれません。

たぶんそれは、その存在に気づいていないことが原因かもしれません

昔、子育てをしている頃、自分の子どもたちと同世代の子どもたちが、街に急に増えたように感じたことがありました。「こんなに子どもがいたっけ」といった感じです。順子さんと僕にはふたごの息子がいます。街にはこんなにふたごがいるのだと、今でもすぐに目につきます。ふたごを連れたママに、おもわず「大変ですね」と、ねぎらいの言葉をかけたくなります。それは、ふたごの子育てがとっても大変だった記憶が生々しくあって、目ざとくふたごの姿が目に飛び込んでくるのでしょう。

僕のように、多くの人は、自分に関係ないことや、関係のうすいものを意識の外に投げ出して、見ていない、聞いていないことを当たり前にして暮らしています。元々、人はそれほど情報処理能力に長けているわけではありません.情報過多と言われる今だからこそかもしれませんが、自分というものをシンプルに繕って生きているのかもしれません。

ある人には見えていてて、僕には見えていなかったものを、同じように見せる力を「共感」と呼ぶのでしょうか。

いま僕は、昔と違う風景をみているのかもしれません。昼間、電車に乗り、バスに乗り、街を歩くとき、目に止まるのはたくさんの老人のすがたです。そして、多くの人が杖をついて歩いています。勿論、急速な少子高齢化がすすんでいて、たくさんの老人が生まれていることも事実です。老人が生まれるとはおかしな表現ですけど。

僕に見えているのは、街には杖をついた老人がたくさんいて、誰もがひとりで歩いていることです。そして、そのステッキを使った歩き方がなかなかうまいのです。

そんな、杖の話です。


順子さん、杖をつく。

順子さんは、2020年2月1日に仕事を辞めました。そして、2月6日、「多系統萎縮症(MSA)」であると確定診断されました。 5月27日、障害者2級の身体障害者手帳が交付されました。6月4日、要介護1の要介護認定を受け、指定難病医療費助成制度の申請を行っていました。

「指定難病」というのは、原因が不明で、治療方法が確立していない難病の中で、厚生労働大臣が定める疾病だと定義されています。厚生労働省のホームページによると、338の疾病が「指定難病」として登録されています。(
2024/1/25日現在)

指定難病については、治療が極めて困難であり、かつ、その医療費も高額に及ぶため、患者の医療費の負担軽減を目的として、一定の認定基準を満たしている方に対して、その治療に係る医療費の一部を助成しています。

神奈川県 指定難病のしおり

順子さんの疾病「多系統萎縮症(MSA)」は17番として「指定難病」に指定されています。僕が順子さんの病名を聞いたときも初耳の病名でしたが、「指定難病」に登録されている病名は、およそ聞いたことのない病名ばかりです。パーキンソン病とか、ALS(筋萎縮性側索硬化症)とか、いくつか聞いたことのある病名もみつかります。でも、それがどんな疾病なのかよくわかりません。ただ、マイケル・J・ホックスやモハメッド・アリがパーキンソン病で、ホーキング博士がALS(筋萎縮性側索硬化症)だということを知っているから、病名だけは知っています。

難病というのは、発病の原因や効果的な治療法が確立していない病気のことです。要は治らない病気に罹っているということです。とはいっても、生活していくことが困難になり、いろいろな症状があって、効果的な治療法がないからといってほっておくこともできません。症状を安定させながら普通の日常生活をすごすことができるように、長期的な治療が必要になります。そして、その治療にかかる費用もかさみます。この費用を軽減してくれる国の制度がいろいろあります。

この難病認定と障がい者手帳については、障がい者総合支援法という制度でおおくくりにできるのですが、それぞれ保健所と障がい福祉課と担当が違います。介護サービスはまた制度が違っていて、介護保険制度という枠組みのうえで運営されています。

「身体障害者手帳」や「介護認定」、「指定難病医療費助成制度」などと支援制度があるのですが、手続きがいろいろと複雑で、僕はそんな手続きに追われていました。

日光旅行から半年、確定診断から5か月、順子さんは身体障害者になり、要介護者になりました。ケアマネさんも付きました。

訪問看護や訪問リハビリも週2回来ていただき、家の中には、手すり、歩行補助具、風呂用ベンチなど介護用品も増えました。

相変わらずの「気は優しくて力もち」の順子さんですが、スーパーまでひとりでちょいと買い物へなんて、もうできません。家の外へ出るときは、杖をついて、しかも僕が同伴で、僕の腕に手をまわして歩るくようになりました。それでもバランスがとれず、ときには大きく僕の腕を左右前後にひっぱります。杖と僕の腕が、どうにか順子さんの歩行を助けていました。

ちょっと前までは。ペンギン歩きと僕に揶揄されていたチョコチョコ歩きで、ひとりで杖なしでも歩いていた順子さんですが、今は支えがなければ、立つことも歩くこともできません。つかまり立ちをして、つかまり歩きをする幼児を想像していただければ、おおよそそんな状態の順子さんでした。

はじめは、山歩きにでも使えそうなおしゃれなステッキでしたが、介護用品の業者の方からいろいろな杖のサンプルを持参していただき、使い心地を試してみて、新しい杖に決めました。それも両手に1本づつです。それが、下のようなロフストランドクラッチ型の杖です。

ロフストランドクラッチ型の杖とは、写真のように体重を支えるグリップと、前腕を包み支える腕支えで重心をとって歩く杖です。

幼児のような歩き方で、ロフストランドクラッチの杖を両手にもって歩く。住宅街の道路には、車道も歩道もありません。歩いている真横を車が走りすぎます。車が通れば歩行をやめて、車が通りすぎるまで立ち止まる。そうしようと決めていても、ふらっと車の方へと倒れたら。そんなことを想像したら、ひとりで歩道をあるくなんて考えられません。

これが、半年前には想像もしなかった今の順子さんです。明らかに病気は悪くなっています。そうです。病気は進行していました。
いま僕は、昔と違う風景をみているのかもしれません。

杖をつきながら順子さんは僕と街にでます。街の歩道は、平坦で歩きやすい場所などありません。道路工事による部分補修あと、横断歩道の微妙な段差、タイルの破損・浮き上がり、歩道の傾斜、店舗のワゴン、放置自転車、道路を独占するようなバス待ちの行列、横並び一列で歩く若者、歩道をゆく自転車、駆け回る子どもたち、ときには後ろから「じゃま」と、罵声まで浴びせられる始末です。

側杖そばづえをくらう」という言葉があります。「けんかのそばにいて、その杖で打たれる。転じて、自分と関係のないことのために、とばっちりを受ける。まきぞえを受ける。」ことを言います。

ガザやウクライナだけでなく、この国の政治を見ても、人として悲しくて恥ずかしくなる出来事が毎日のようにニュースに流れます。「側杖をくらう」のは、いつでも弱い人たちです。ガザでは2万5千人以上の命が失われました。ホロコーストという人類最大の汚点といっていい歴史を生き抜いたイスラエル人が、なぜジェノサイドの加害者になるのか、人の愚かさに愕然とします。

そのころ、順子さんは、文字通り「側杖の人」でした。常に杖がそばにありました。順子さんが難病に罹患したのは、理由のわからない、もしも悪魔がいるのなら悪魔のたくらみにしかおもえません。しかし、ガザ市民が「側杖をくらう」のは、神の思し召しでも、悪魔の仕打ちでもありません。悲しいほどの人の愚かさです。

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