自分の言葉は、誰かの言葉で出来ている。
自分の言葉は、誰かの言葉で出来ている。
人によっては「そりゃそうだ」と思うかもしれない。
人によっては「なんだそれ」と思うかもしれない。
でも最近、というかnoteを書き始めてからつくづくそう感じている。
元をたどればやはり「当たり前」なのかもしれない。
お母さんのお腹から生まれてきたとき、私たちは言葉を知らない。生まれてきたとき赤ちゃんがいきなり、
「はじめまして!」
とは言わない。
親をはじめとする周りの人たちが、赤ちゃんに対していろいろな声掛けをしていく中で、「言葉」というものを覚えていく。
だからいっぱいしゃべりかけられれば、いっぱい言葉を覚えていくだろうし、大人になっても親のしゃべり方や口調に似てしまうということもあると思う。
優しい口調、きつい口調、その口調を見ただけでどういう環境で成長してきたかわかってしまうものだ。
そう考えても、自分の言葉は誰かの言葉で出来ているんだなと思う。
話が変わるが、小さい頃は読書が嫌いだった。
瞬間的に得られるものがないというか、だったら友達とスポーツしたり、ゲームしたり、そっちの方が楽しいじゃん!!っていう少年だった。
だけど大学に入り、講義で義務的に本を読まざるを得なくなった。最初はイヤイヤだったが、そこで本の世界の奥深さを知った。
自分が実際に体験しなくても、本を読めばその世界に入り込めた気分になれる。言葉だけでその世界をイメージできる。そして言葉だけで心が揺さぶられる。
「本って、言葉って面白いかも」
そう思った瞬間だった。
noteを始めて、たくさんの素晴らしい文章を読んできた。
素晴らしい文章は、言葉は読んでいるだけでワクワクするし、ウキウキするし、泣けてくる。居心地が良い。
そして自分の心の支えになりそうな言葉にいくつも出会った。
言葉なんて言ってしまえば「モノ」としては実在しない、ある種、空想上のものだ。言おうと思えばなんだって言える。
だけどそれは裏を返せば、いくら多くの言葉を持ったとしても、「持ちきれなくなる」ということが存在しない。装備し放題だ。なんて魅力的なんだろう。
確かに「モノ」として存在しない以上、言葉そのものに特殊な力は備わっていないのかもしれない。
だけど、その言葉に「意味」を与えることは出来る。そして言葉によってマインドコントロールすることが出来る。そしていろんな言葉に支えられて、そこに自分なりの解釈を与えて、結果的に「自分」というものが存在する。
ただ、もちろんいい意味ばかりではない。
時に言葉は「ナイフ」にもなりうる。
「モノ」として存在しないのに、そこに言葉として存在するだけで人の心を痛めつけることがある。
わざわざ準備しなくても、誰しもが常に持ち合わせているのだから「ナイフ」より質が悪い。
しかもそういった言葉の「ナイフ」が飛び交った環境で育っていれば、それが人を傷つけているなんて気づかずに使い続けてしまうかもしれない。だから常にその「ナイフ」には敏感である必要がある。
以上を踏まえても、「自分の言葉」は「アイデア」に似ている。
”アイデアは既知と既知の組み合わせ”ということは何度も紹介してきた。結局、自分の身体から出る言葉も”既知と既知の組み合わせ”なのだ。
本当に0から生み出すケースも稀にあるかもしれない。
でも基本的には、誰かの言葉をそのまま使いまわしたり、誰かの言葉を自分なりにアレンジしたり、誰かの言葉と誰かの言葉のいいとこどりをしたり。
そうやって、誰かの言葉と誰かの言葉の組み合わせで、自分の言葉は出来ているんだなって感じる。
そう考えると自分次第で言葉の世界は無限に広がっていく気がして、今ワクワクしている。
出会う人の数によって出会う言葉は増えていく。
読む文章の数によって出会う言葉は増えていく。
そして今書いている「自分の言葉」が、誰かの言葉になる可能性もある。
なんかそれってすごくない?って思う。
「ひとりぼっち」の言葉として発したものが、誰かの言葉になる。そう考えるだけで面白い。
と同時に、言葉の「ナイフ」を広めてはいけないという責任感も伴う。誰でも発信できる時代だからこそボタン一つでその「ナイフ」は世界中に拡散されていく自覚をしないといけない。
これからも、たくさんの人と出会い、たくさんの文章に触れ、たくさんの文章を届けていきたい。
そうやって自分だけの言葉をどんどんつくっていきたい。
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