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選びながら、使い分けながら。

いきなりだけど、
「選ぶ」と「使い分ける」って似てるけどちょっと違うと思っている。

いや、細かく見れば一緒だよ。
どちらも複数あるなかから選択をしていくのだから。

だけど感覚的に「選ぶ」って"一度きり"とか"1個"みたいなニュアンスを感じる。一方で「使い分ける」って"状況に応じて""都度都度"といったニュアンスを感じる。

生きていると何か「選ぶ」ことが求められる気がする。
「どっちか選びなさい」
「どっちにするの?」
「じゃあこっちは諦めていいんだね」
みたいな。

たしかに1回しか選べない時もある。

生みの親は基本的に2人だし、最初に入学する学校も1つ、クイズミリオネアでファイナルアンサーをしてしまったら、もう前まで獲得していた金額でドロップアウトすることはできず、目の前でみのもんたさんが紙幣を破ってしまう(古い)


だけどね、そればっかりでもないと思うんだ。

最初に入社した会社でも、上手くいかなかったり自分の将来設計とはずれていたりしたら転職することもできる。なんなら最近副業という働き方もあ
る。

本田圭佑選手(の真似をするじゅんいちダビッドソン)だって時計を両腕につけて「あ、こっちミラノの時間や」と言っている(これも古い)。これも時計の使い分け。

何よりも人間は場面や相手によって自分の顔を使い分けているじゃないか。

ある本で「個人」と「分人」という考え方を目にした。「本当の自分とは何か」という論点が間違っているのであって、場面場面での違う自分が全部「本当の自分」なのだ、と。自然と使い分けをしているのだと。腑に落ちる内容だった。


こんな感じでわざわざ1つや1回に限定する必要なんてなく、むしろ状況に応じた使い分けが自分自身の幅を広げてくれるんじゃないかと思っている。

それなのに私たちは何かとその1つ1回1個の選択が、まるで人生をかけた選択かのように感じられてしまう。差し迫った状況になる。

ようは、「もっと余裕持っていいんだよ」ということ。そしてもっともっと自分を試していいし、実験していいし、人を頼ってもいいということ。


こういった、1回の選択にかける「選ぶ」という行為と状況に応じての「使い分ける」という行為を良きように"使い分けて"いきたいなって思う。


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塩浦良太
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