「ひとりぼっちの言葉」だから自由に書ける。
現実での「自分語り」がすごく苦手だ。過去にもそんな記事を書いた。
何言っても大丈夫そう、この人なら聞いてくれる、それくらいの関係性が出来上がって初めて口を開ける。
それではいけない、とわかっていても、「自分語り」できるようにならないと、と思っていても自然と言葉を選んでしまっている自分がいる。
「相手の時間を奪ってしまうんじゃないだろうか」
「相手が反応に困るんじゃないだろうか」
そんな相手のことを心配しているようで結局は自分の見られ方を気にしている状態がそうさせているのだと思う。
きっとこれは小さい頃からの癖で、小さい頃から自分のことを話すのが苦手だった。というよりは、いろいろな「隠し事」をしていた昔は、自分のことで話せることがあまりなかった。
だけど自分の中だけで留めておくには耐えきれない。
なんて都合のいい人間だ。
そんな自分にとってnoteってすごく居心地のいい。
見方によっては多くの人が読めるように書いてあるけど、見方によっては「ひとりぼっち」だ。誰かに向けて書かれているわけではない。
読みたい人が読んでくれている。だからそこに、「相手の時間を奪っている」という罪悪感は存在しない。
そして自分のことをnoteというサービスを通じて「知って」はいるけど、知らない人がほとんどだ。きっとこの先も会う可能性が低い人がほとんど。だからあまり見られ方は気にならない。もちろんだからといって、自分の言葉で誰かを傷つけるのはお門違いだが。
そんな「ひとりぼっち」の感覚をうまく表現している文章があった。
「あなたのために、なんて図々しいことは言えません。けれどぼくは、『みんなの言葉』ではなく、いつまでも、『ひとりぼっちの言葉』を、書き続けようと決めています。読んでくれたその人、その人が本の前に現れることで、たったひとつの椅子が埋まるように。だからぼくは、あなたに読まれたことを幸福に思います」
(『恋人たちはせーので光る』あとがき)
なんと素敵な表現だろう。そして自分自身もこの感覚だ。
別に全員に届かないくていいし、全員に「素敵な文章だね」なんて思われなくてもいい。
正直、「自分語り」なのだから自己満足だ。
だから読んでくれるその人にだけ届けばいい。必要な人に届けばいい。たった一つの席に座ってくれた人に届けばいい。そう思っている。
今日も「ひとりぼっちの言葉」を自由にnoteに書き連ねる。そんなnoteの一番客は自分自身。いや、席はたった一つしかないのだから読んでくれたあなたが一番客か。
だからそれぞれがそれぞれの解釈をしていい。そしてそこで生まれた一つ一つの解釈がすべて正解だ。むしろ読んでくれた「あなた」の解釈で、この記事が完成するといった方が適切かもしれない。
あ、でも現実で流暢な「自分語り」が出来るようになることも諦めていない。もっともっと自分のことを知って、自分のことを好きにならないとなと思っている。
かといって自分語りのしすぎは正直面倒くさいヤツだと思われる。
「こいつ、自分の話ばっかりやん」
って。そんな人を何人も見てきた。羨ましくもあったが。
だからその辺のバランスは気を付けて。