「天才」って言葉が嫌いだった
人間生まれた最初は天才だった、のかもしれない。
しかしいろんな経験をしていく中で、現実を知っていく中で、怖さを知っていく中でそして他者と比較していく中で限界を決めていってしまう。
「自分は天才じゃないんだ。何者でもないんだ」
って。そんな記事を過去に書いた。
その一方で、小さい頃は「天才」という言葉が嫌いだった。
小学生の頃とか特に、何か周りの人より優れていると「天才」という言葉で片づけられていた気がする。
「お前足はやっ。天才じゃん」
「天才はいいよねー。勉強が出来て」
”天才”
自分はその言葉にずっと違和感を覚えていた。
天才=生まれつき備わった才能
確かに本当に生まれつき備わった才能で、何でもかんでも出来てしまう人がこの世には存在するのかもしれない。
自分もそうなのか。
テストでいい点数をとる。マラソン大会で1位を取る。部活でレギュラーを勝ち取る。これは生まれつき持った才能なのか?いや違う。
勉強だって繰り返しやってやっと身についたものだし、幼稚園の頃のマラソン大会は転んでビリだった。部活だって最初から結果を出したわけではない。
自分で結果を出したくて、そしてそもそも楽しくその物事に時間を費やしたことによって得られた成果だ。
その成果を「天才」という漢字2文字で片づけられることがずっと違和感だった。小学生でこんなことを思うなんて、今思えば生意気な奴だ。達観しすぎている(笑)
だけどその「天才」という言葉がすごい引っかかって、天才って言われるたびに、
「いや、俺天才じゃないから(笑)」
って言ってた気がする。
そんな一方で、自分には到底できないことをいとも簡単にやっている人に対しては「天才はやっぱ違うな」、そんな旨の言葉を言っていた気がするようなしないような。
よくよく考えれば特大ブーメランだ。
自分にとって都合のいい時は「天才なんかじゃない。努力と実力で出来るようになったんだ。過程を見てくれ」と言わんばかりなのに、ふと自分には出来ないことになったら「あれは天才だ。だからしょうがない」と口から出る。
あれ、、?
じゃあ天才って「あなたには敵いません」「私は天才じゃないから出来ません」と言ってるようなものなんじゃないか?
相手への最大級の賛辞なんじゃないか?
そう思うと「天才」の捉え方が変わった。
天才ってこの上ない褒め言葉だ。
「私はあなたには敵いません」っていう完敗宣言だ。
「天才」という言葉が嫌いだった私はどこへやら。
私は天才になりたい。森羅万象の物事をうまくはこなせなくても、何かの天才になりたい。
そしてすごいものや人に対しては「天才」と最大級の賛辞を贈りたい。でもただ天才という単語で片づけるんじゃなくて、枠組みにあてはめるだけじゃなくて、しっかりと天才の言語化も添えて。