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たいていはどれも正論

どこかで見たその言葉に、気づいたらメモをとっていた。

「たいていはどれも正論」

確かにな、と。

もう少し疑う部分を持った方がいいと思うが、私はどうしても1回は「確かにな」と受け入れてしまう。そこから本当に「確かに」なのかどうかを確かめていく、っていう。(笑)

余談はおいておいて。


まずどうしてこの言葉に納得したのか。

私たちは多くの場合、「何が正しいか」で物事を判断しようとする。そんな状況で議論を交わすとなかなか議論が落ち着かない、、、なんてことも。

だってそれってお互いにとってお互いの「正論」をぶつけているのだから。

そういえば似たような記事を過去に書いていた。

正義というのは10人いれば10通りの正義があって。誰が正しいとかじゃなく、みんな正しくて。みんなそれぞれがある方向から見れば「正論」を言っていて。

まさしくそれは”たいていはどれも正論”だ。

誰かにとっての正解が世の中に多く溢れている中で、個人で生きていくのであれば個人が持つ正解を貫いていけばいい。

でもそうはいかないこともある。

学校だって集団行動の場面が多いし、会社だって組織の場合が多い。そんな時、自分の正解を貫くだけじゃ上手くいかないこともある。お互いの正論を真正面からぶつけ合うノックアウト方式ほど、体力を削るものはない。

ここで必要なのは

「どこに焦点を合わせるか」

という視点なんじゃないかと思う。

もう少しかみ砕いた言い方をするのであれば「何を優先させるのか」といったところだろうか。その優先順位によってどの正論を選び取るかが変わってくる。もしかしたら折衷案になることもあるかもしれない。

間違っているものは何か、という議論ではない。
みんなそれぞれがそれぞれの正論を並べる中で、この場面ではどの正論が当てはまるのか、を考える議論だ。

とまあ偉そうに語ってはいるが、いざ自分がその立場になったら自分の正論を貫きたくなってしまうのかもしれない。でも少しでも上の視点や意識を持っているだけで、ちょっとは俯瞰して物事を見れるんじゃないかなって期待している。

意識してるのと意識していないのは全然違う。

前者は変わろうとしている。後者は変わる機会すらない。

繰り返し意識することでいつか変わるきっかけが生まれる。
意識していないとそのきっかけすら生まれない。

すぐに変われないことにガッカリしない。
変わろうとしている自分を大事にする。

5回やって4回上手くいかなかった、、、じゃなくて、5回やって1回上手くいった!という意識。気持ちのさじ加減かもしれないけど、結局は気持ちゲーだと思う。


少し話が飛躍してしまった。


誰が間違っているか、じゃない。
何が正しいか、じゃない。
たいていはどれも正論。
そのなかでどこに焦点を合わせるか。
ここでは何が当てはまるか。

そんなことを意識していきたい。


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塩浦良太
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