真面目が恥ずかしいんじゃない
「真面目が恥ずかしいんじゃない」
どこかで見たその言葉が印象に残り、
タイトルにだけそう入れて下書きとして残っている記事がnoteにあった。
せっかくだから今日はこれについて考えてみたい。
真面目
この単語に皆さんはどういった印象を持つだろう。
「誠実そう」
「一生懸命そう」
そういったプラスの印象がある一方で、
だけど、、、という言葉とともに、
「つまらなそう」
「頭が固そう」
みたいな言葉もついてくる印象がある。
本来どちらかというと❝褒め言葉❞であるはずなのに、
学生の頃からその言葉はどこかバカにされている感じがして、
「真面目」と言われることに恥ずかしさを
感じることがあったのは私だけだろうか。
そんな私がそのしがらみから抜け出すことが出来たのは、
大学生になって東京を中心に就活をしていた頃。
そこには真面目に貪欲に意識高く就職活動に挑んでいる、
向上心の塊のような同世代がたくさんいた。
そのころから始めた当時Twitterにも、
同じように「意識高い」と一般的に言われるような人たちが
たくさんいた。
それを見て、
「真面目でもいいじゃん!カッコいいじゃん!」
そう思うことが出来たのは自分にとってもいい経験だった。
その時の気持ちの変化を書いた記事がこちら。
まさにタイトルのように、
「意識高いね」の印象が誉め言葉に変わった頃だった。
これを踏まえて改めて考えたい。
「真面目って恥ずかしいことなのか?」と。
自分なりに1つの答えにたどり着いた。
それは、
真面目であることが恥ずかしいんじゃなくて、
真面目であることを「恥ずかしい」と思っている自分が恥ずかしいじゃん、
ということ。
最初に感じたのは真面目=恥ずかしさ、だったかもしれない。
でも居場所を変えたことで真面目=褒め言葉、に変わった。
つまり「真面目」というものに対し、意味を与えているのは自分自身というわけで。
そうみられる自分が恥ずかしいから恥ずかしい言葉として解釈をしていただけだった。
学生時代は結局、コツコツ真面目に取り組んでいたが、それを大っぴらにすることもなかった。今となってみれば、周りを気にしてた自分がちょっと恥ずかしい。
言葉には広辞苑的な意味はあっても、
結局そこに意味や価値を与えるのは自分自身だ。
自分で自分を生きやすくも生きづらくもする。
きっと当時は周りの人との関係を気にして、周りに合わせることが自分にとっての「生きやすさ」につながると思ったんだろうけど、結果それが「生きづらさ」につながっていたというわけ。
自分がどういった意味をその言葉に与えたいか。
それだけで十分なのかもしれない。