言葉には、その人が通ってきた過去が映る。
毎日noteを更新し始めて600日以上経過している。
Twitterの名前も「エッセイストな就労支援員」と少し大きく出てみた。客観的に見て”エッセイスト”と名乗るなんて恐れ多いが毎日1000字~2000字の文章を綴っているから許してやってほしい。
ここまで文章の投稿を継続していると、嫌でも「言葉」を大事にする人という印象がつくのではないだろうか。
実際、言葉をめちゃくちゃ大事にしている。
そんな中、ふと日常生活を送っていく中で仕事をしている中で思ったことがある。
それが、
「言葉には、その人が通ってきた過去が映る」
ということ。
どういうことか。
言葉というのは、社会に揉まれていく中で培われていくと思っている。
子どもが一番最初に言葉を教わるのは多くの場合、親だ。もちろんそうじゃないケースもあるが。
言葉という存在を知らない中で、親が発した一語一語、一音一音を真似して少しずつ言葉を覚えていく。
やがて成長して子どもにとっての「社会」はどんどん広がっていく。保育園や幼稚園、小学校、中学校と。「社会」が広がれば広がるだけ、言葉を教えてくれる「先生」も増えていく。
知らず知らずのうちに親の目が行き届かないところで新しい言葉を身につけていくから、「どこでそんな言葉覚えてきたの!?」という状態が生まれていくんだと思う。
ましてや今はSNSでいろんな人とつながれる時代になった。つながればつながるほど「先生」も増えていく。ようはそうやって出会ってきた「先生」たちによってその人の言葉は出来上がっていくんだろうな、ということだ。
自分自身も、振り返ればそうだった。
過去にそんな記事も書いている。
言葉に柔らかさがある人や明るさを感じる人は、
「あ、温かい環境で過ごしてきたんだな」
と感じる。その一方で、
「過去に強い言い方をされたんだ」
そういう人の発する言葉ほど、どこか強い。
これは誰が悪いとかじゃない。
育ってきた環境、過ごしてきた環境でそれが「当たり前」だったから自然に染みついてしまったんだと思う。
それ以外、を知らないからどう対処・対策していけばいいかわ刈らないんだと思う。
それくらいに、言葉って真っすぐにその人が通ってきた道が見えてくる気がする。
でもだからといって、それが相手を傷つけていい理由にはならない。相手を怖がらせていい理由にはならない。染みついた過去を書き換えるのは簡単じゃないけれど、それでも変えていかなければならない。
もちろん自分でそのことに気づくのが大切だけど、「当たり前」を書き換えるのは難しくて、だからこそ周りがどう関わっていけるかって大事だ。周りがその人にどういった言葉をかけてあげるかって大事だ。
それはつまり、自分が何気なく吐いたその言葉が相手に影響を及ぼす可能性があるということ。
だからこそ言葉選びを妥協してはいけない。
そして自分が綴る文章も誰かに影響を与える可能性がある。そのことも常に意識しておかないといけない。
ありのままの感情を吐いた言葉は時に共感を生む。しかしありのままの感情は時に自分を盲目にする。そして誰かを傷つける可能性もある。そしてその言葉が誰かの人生に影響を及ぼす可能性もある。
確かに全員にとっての「いい記事」「いい文章」は書けないかもしれない。
だけど言葉選びを妥協しないことは出来る。
そのことを常に意識したい。
そして「言葉には、その人が通ってきた過去が映る」んだったら、自分の言葉でその人の未来をちょっとでも明るく、前向きにできたらな、って思う。