代弁ではなく翻訳を。
ずーーーーーっと将来の夢とか、やりたいことがない人間だった。
なんかこんなことを、以前も書いたことがある気がする。
周りが安心するような、納得してくれるような夢を並べ、自分にそう言い聞かせる。だけどやっぱり違うと気づき、とりあえず今を積み重ねることに奔走する日々だ。
最近ある印象的な文章に出会った。
この考え方が正しいかどうかは別として、すごくわかる気がする。
私の場合特殊で、子供ながらにいろいろと思う環境で育ってきたがあえて言語化していなかった。当時「あえて言語化しないぞ」なんては思っていないけど、言語化しちゃったら現実が見えてきちゃう気がするから、考えないようにしていた自負はある。
ただその分、消化不良の感情がたまりにたまっていて爆発しかけたから言語化を始めた。それが大学時代だった。やっぱり始めた当初は下手くそだった。まとまりのない、ダラダラの文章だった。でも言語化を必要として繰り返した結果、ある程度の言語化状態まではいった気がする。
せっかくなら人生をかけて積み上げてきたこの「言語化」を、何らかのかたちで活かしたいなって思っている。それが過去の自分への報いでもあるし。
そんな時、上記で紹介した文章も含め感じるのは、
ということ。
自分がちょっと言葉をつかえるようになると、いろんな人の代弁をしたくなっちゃうと思う。相手が発言をする前に、
って。たしかに言葉が上手いから代弁できるのかもしれない。でもそれって誰のためになるんだろう。一見代弁してもらって人のためになりそうだけど、むしろその逆だと思っている。
代弁してもらった人は結局自分では考えていない。代弁者の言葉は自分の言葉じゃない。それでいて代弁者はいつまでも隣にいてくれるわけじゃない。やがて1人になる。1人になったとき、あなたは同じように語れるのだろうか。その結果は言うまでもない。
だけど「じゃあ1から言語化できるのか」というと簡単なことではない。
そういう時に必要なのが”翻訳者”だと思っている。
本人の発言を、「それってつまりこういうことですかね」と別の表現に言い換える。より背景が伝わるように、より本人の思いが伝わるように。そこに翻訳者側の解釈って入ってない。あくまで本人の発言を言い換えているだけだ。本人の言葉であることに代わりはない。
翻訳をしてもらえることで、言語化の仕方がわかる。
やがて次は自分が出来るようになる。そうやって言語化の輪は広がっていく。
言葉のプロフェッショナルが数人だけいる世界よりも、自分の言葉と向き合い、ある程度言語化できる人が数十人、数百人いる方がよっぽど幸せだと思っている。
代弁者であることも当然素晴らしい。
ただ代弁者はあくまで「その場をしのぐ」役割だ。
一方で翻訳者は「未来をつくる」役割だ。
私が目指すとするならば、後者でいたい。