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「しょうがない」は最終手段
「しょうがない」
この言葉を聞いてあなたはどういった印象を受けるだろうか。
プラスのイメージだろうか。マイナスのイメージだろうか。
それとも、どっちもだろうか。
まず誤解のないように書いておきたいのは、
「しょうがない、は悪いことじゃない。むしろいいこと」
ということだ。もう書いたということは逆の立場を書くんだな、ということをお分かりいただけるだろう。でもその前に、「いいこと」という立場で書いてみたい。
人生生きていると、少なからず理不尽に直面することがある。自分の力だけではどうしようもないことに直面することもある。カッと頭に血が昇ったり、「自分はダメなんだ」という無力感に苛まれたり。
そんなとき、「しょうがない」という言葉を自分にかけられるかどうかが、自分を守れるかどうかにつながっているのではないかと私は考える。
「しょうがない」という言葉には、余計なイライラや落ち込みを防いでエネルギーの無駄遣いをしないという点で、とても大きなメリットがある。
冷静に現実を見据えた時に、いくらもがいても実際問題として不可能なことや、どうにもなりえないことは多々ある。それにずっととらわれてクヨクヨするのはあまり生産的ではない。そこで「しょうがない」と状況を受け容れることができれば、時間的にも精神的にもダメージを最小限に抑えることができるのだ。
、、、という「しょうがない」肯定サイドの意見を書いた上で、それを少し覆す、、、というか補足させていただくとすれば、私は
「しょうがない」は最終手段
でありたい、そう思っている。
確かに世の中「しょうがない」ことはある。むしろそっちの方が多いかもしれない。でもだからといって「しょうがない」と割り切ることに慣れたくはない。私の場合は。
少なからず抗って、何とか出来るんじゃないかと試行錯誤して、全力を尽くして、それでもダメでもうこれ以上やると自分を潰しそう、、、ってなった時に「しょうがない」という最終手段を講じたい、そう思っている。
これが全ての人に当てはまるとは思わない。人それぞれ特徴があるから。
自分の場合は根っからの「負けず嫌い」。
良くも悪くも「こだわりがある」タイプの人間だ。
自分の中で”それ”をやる理由だったり、受け入れる理由だったりを上手く落とし込むことが出来れば何の気持ちの揺れもなくそれを全うできる。
だけど自分の中でどこか納得がいかなかったり、自分の中にある”正義”に反するようなことであるとその対象に対してフルベット出来ない節がある。
本当に良くも悪くもな性格だ。
でも正直「しょうがない」っていつでも言えると思っている。
いつでも言えるならやれるだけのことをやって、これでもかってくらい全力を尽くしてもう手の内使い切ったタイミングで、
「ここまでやったから、しょうがない」
そうやって自分の力不足を受け止めたい。
一番避けたいのは「しょうがない」と思うことが当たり前になること。
「しょうがない」が当たり前になると、いずれ考えることを放棄するんじゃないかと思っている。それまでは、
出来ない→どうして?→対策→結果出ず、、→しょうがない
だったのが、
出来ない→しょうがない
に。
考えることを放棄した瞬間、試合終了だと思っている。
私は死ぬまで考えることを放棄したくない。考えて考えて考えて。常にその時のベストは何かを考えて。別の対策はないか考えて。考え尽くした先に最終手段として「しょうがない」を装備しておく。
そんな感覚だ。
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