教育コーディネーター今村亮です。
このページでは今村亮のプロフィールを紹介します。
最新の活動はこちらです。
ディスカバ! コーディネーター
株式会社DISCOVERY STUDIO 代表取締役
桜美林大学 高大連携コーディネーター
カタリバ大学 事務局
2003年 学生時代とNPOカタリバの創業期
私は1982年熊本生まれ。90年代カルチャーど真ん中で思春期を過ごしました。
大学進学とともに上京し、東京都立大学人文学部で社会学と人類学を学びました。多摩ニュータウンでの大学生活は、まったり楽しい日々でした。
就活をはじめたころに出会った友だちに「人が足りないからイベント手伝って」と誘われて、出会ったのがNPOカタリバでした。その偶然が人生を方向づけることになるとは、思ってもいませんでした。
就活も終わりそうだったので、ここで活動することに決めました。憧れの先輩たちに追いつけるよう無我夢中でがんばりました。
大学4年の夏、ETIC.「社会起業塾」の入選を目指して、「カタリ場」プログラムの事業計画をつくりました。大学生が高校に出張授業してキャリア教育を届けるという趣旨です。
採択の連絡を受けたときは、奇跡かと思いました。そして立ち上げに奔走しました。思えば、人生最大のターニングポイントでした。
当時のことは、書籍にまとめていただきました。読み返すと今でもムズムズします。そのようにして大学生活が終わりました。
2005年 凸版印刷で営業
当時のカタリバには私に給料を払う余裕がなかったので、内定をもらっていた凸版印刷株式会社に入社しました。平日は深夜まで営業をがんばりながら、土日はカタリバの現場を手伝う日々は、ハードでしたが楽しかったです。
2010年 NPOカタリバに転職
5年半の営業経験を経て、NPOカタリバに転職しました。そのきっかけとなったのは寺脇研さんと学ぶ「カタリバ大学」です。
転職というよりも、カムバックです。ディレクターとして「カタリ場」を中心とした事業運営を担当し、大学生たちと現場をまわりました。信頼できる仲間たちと、未来のために思いっきり仕事できる日々は幸せでした。
2010年 慶應義塾大学・熊本大学・嘉悦大学にて講師
カタリバ転職と同時に、非常勤講師として大学の授業を受け持つようにもなりました。
初任は、当時加藤寛先生が学長を務めておられた嘉悦大学です。先輩たちに教えていただきながら、初年次教育を中心とした大学での授業運営の実践を重ねました。新入生の学びのモチベーションを引き出し、学生コミュニティを活性化するために奔走しました。
その後、慶應義塾大学と熊本大学ではNPOマネジメントの授業を受け持つようになりました。
2011年 東日本大震災
ほどなく、大震災が日本列島を襲いました。
NPOカタリバは震災の被害を受けた女川町・大槌町の子どもたちの支援を始めます。私は東京の本部で、後方支援やイベント実施などを担当しました。ときどき夜行バスで現地に向かいました。
世界ががらっと変わったような気持ちでした。
2014年 中高生の秘密基地「b-lab」開館
震災をきっかけに、単発のイベントだけではなく、常設の施設で日常を伴走する必要を感じるようになりました。
そんなときに出会ったのが文京区の「青少年プラザ」構想です。東京大学の裏手に、中高生のための施設を新設する計画があるのだと言います。
はじめての行政案件です。プロポーザル(企画コンペのようなものです)に挑戦し、このプロジェクトを託していただきました。
私がつくりたかったのは「中高生の秘密基地」です。そのコンセプトを、中原淳先生の研究室でうんうん悩みながら、言語化できました。
工事が進んでいた施設が誕生するまでの一年間、中高生とともに走りまわりながら、準備を進めました。
2016年 熊本地震支援「ましき夢創塾」開館
ある週末、熊本に震度6の地震が発災したというニュースが飛び込みました。私の地元です。
あわてて家族に連絡したら「大丈夫、大丈夫」と返事がありました。
翌晩、さらに大きな大地震が発災しました。今度は電気も水道も止まりました。これはまずい。急いで現地に向かいました。
運動場に急設したテント村では、子どもたちが居場所をなくしていました。東日本で見てきたのと同じ風景でした。
すぐさまカタリバの熊本事務所を立ち上げ、チームを結成しました。益城町教育委員会との連携で、学校再開を助け、仮設住宅を支える、子どもたちの居場所コラボ・スクール「ましき夢創塾」を開始しました。
ちなみに、私のばあちゃんの家は全壊していました。小さいころ何度となく通った思い出の場所です。誰も怪我していなかったことが幸いでした。
この国は、いつでも・どこでも、私の地元でさえ、被災地になるのです。
2016年 「マイプロジェクトアワード」全国展開
被災した子どもたちは、やがて力強く立ち上がっていきます。支援される側から、地域を担う側へと、そのモチベーションを向けるようになりました。
主体的に活動を始め、アイディアで終わらせずに実践した高校生たちが集う場が「全国高校生マイプロジェクトアワード」です。2013年、たった18人の高校生から始まりました。
その全国展開を、私は事務局長として推進しました。東北と熊本の高校生たちが交流する様子には、言葉にならない感慨を覚えました。
2019年 独立と「ディスカバ!」スタート
NPOカタリバを退職を考え始めたのは2018年だったと思います。
当時のカタリバは、すでにフルタイムの職員が100人近くになった時期です。拡大する組織規模の成長に、自分の未熟さがブレーキをかけることを自覚するようになりました。
管理職としての自分にけじめをつけ、現場に戻る必要を感じるようになりました。だからと言って、転職するのか?独立するのか?どうする自分?
そんなときに出会ったのが、桜美林大学の「ディスカバ!」構想です。高校生のためのキャリア支援プロジェクトを立ち上げるため、コーディネーターが必要だということでした。
桜美林大学の高原さんは、「カタリ場」プログラム展開時からのサポーターです。これが私の転機だと、決断しました。
私は教育コーディネーターとして、新しい一歩を踏み出します。
2020年 株式会社DISCOVERY STUDIO創業
ディスカバ!開始直後、世界中を新型コロナウィルスが襲いました。出張授業やイベントなど、交流そのものが難しい時期が始まりました。
そのピンチを、早期のオンライン化でチャンスに変え、ディスカバ!は全国に拡がりました。桜美林大学だけで独占するのではなく、その価値を全国へ。多様な学校や自治体との連携が芽生え始めます。
そこで、TOKYO STARTUP GATEWAYでのファイナリスト選出を経て、東京都の創業支援を受け「株式会社DISCOVERY STUDIO」を創業します。
背景には高校の教育改革の影響もあり、ディスカバ!は拡大のスピードを増して行きます。
2022年 中野区「若者会議」スタート
やがて私が住まう中野区でも、教育コーディネーターとして活動できるようになりました。
何か地元に貢献したいなと思い、区民公募で行政委員に応募したのがきっかけでした。
区長や有識者との議論を経て、中野区役所が若者の声をまちに届けるための「若者会議」を開始することになりました。
プロポーザル(企画コンペのようなものです)の結果、NPOカタリバとDISCOVERY STUDIOの連携で推進することが決まりました。
自分の経験を、自分が暮らす地元に還元できるのは、これ以上なく嬉しいことです。
これから
これまでと同じく、これからもたくさんの楽しく意味あることを続けたいと考えています。みなさんどうぞよろしくお願いいたします。