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原書のすゝめ:#26 L’homme aux cercles bleus

珍味というのは好みが分かれる。

それと同じで、独特の読み味にも好みが分かれる、と思う。


フレッド・ヴァルガスの作品を読んだことがある人は、ミステリファンでもそれほど多くはないだろう。フランス人でも好き嫌いが分かれるようだが、TVシリーズにもなっているぐらいだから、それなりに人気を博しているようである。

日本では、ヴァルガスの作品は在庫がなくなると書店の棚から消え、再版されることなく、やがて中古品以外は入手不可となる。

彼女の作品は、なかんずく三聖人シリーズとアダムスベルグ警視シリーズがよく知られているが、私は後者の方が好きだ。『L’homme aux cercles bleus』(青チョークの男)は、アダムスベルグ警視が初登場する作品である。

ミステリには珍しく、本作にはキャプションがない。章立てもされておらず、表題もない。

したがって、本稿でも原作のどの部分について言及しているのかということが明示しにくいのだが、それについてはあたり、、、をつけて読んでいただくしかない。


さて、フレッド・ヴァルガスだが、彼女の作品は内容も文章も珍味である。ファンタジーのような、あるいは煙に巻かれたような感のある不思議な感触を持つミステリである。

それでは、早速冒頭の場面を読んでみる。



  Mathilde sortit son agenda et nota : « Le type qui est assis à ma gauche se fout de ma gueule.» 
  Elle but une gorgée de bière et jeta un nouveau coup d’œil à son voisin, un type immense qui pianotait sur la table depuis dix minutes.

 マチルドは手帳を出し、「左の男はあたしをからかっているようだ」と書いた。
 男はもう十分も前からテーブルを指でこつこつ叩いている。マチルドはビールを一口飲み、がっちりした体格のその男に一瞥いちべつを投げてから、書き足した。

< 『青チョークの男』田中千春訳 ※太字は筆者 >


カフェでマチルドという女性が一休みしているところである。隣の席にはサングラスをかけた見知らぬ美青年が座っていて、先ほどからテーブルを指で叩いているのがマチルドには気に食わない。

パソコンのキーボードなどを指で叩くことをフランス語ではpianoter と言う。これはpiano ピアノの鍵盤を叩くような指の動きを指している。もう少し後のシーンでは次のような表現も出てくる。

Je crois que ça m’énerve de vous voir tambouriner sur la table.
テーブルをそんなにこつこつ叩かれるといらいらするのよ。

< 邦訳は前掲書 以下同じ >


字面から、こちらはtambourine タンブリンを叩くような仕草に由来することが判る。pianoter と対をなすように楽器を使った表現が言葉遊びになっていて面白い。
ヴァルガスの筆の面白さは、こういう表現が散りばめられているところにあると思うのだが、一方で登場人物たちの意味不明な会話や奇妙な表現には毎回悩まされる。


二週間ほど前にパリ五区の警察署長に任命されたばかりのアダムスベルグは、警察署の前のカフェでコーヒーをかき混ぜている。それまで所属していたピレネー署では「森の精」と呼ばれ、直属の上司である若い女性の警部からは「警察は森じゃない。警察向きじゃないのよ、あなたは」とまで酷評されたのだが、五年間で四件の殺人事件を解決するという快挙をあげた。にもかかわらず、一見ぼんやりしているのに想像もつかない方法で犯人を逮捕する直観的な捜査法が、彼を周囲から浮いた存在にしていた。


アダムスベルクは自分の捜査法について、部下のダングラールに、こう説明する。

計画的殺人には必ずイボのような残虐性がある

と。

* * *

— C’est opposé à mes principes, dit Danglard, un peu fermé. Je ne raffole pas des principes, mais je ne crois pas qu’il y ait des êtres marqués par ceci ou cela, comme les vaches qui ont des signes dans les oreilles, et c’est comme ça, à l’intuition, qu’on désigne les assassins. Je sais, je dis des choses banales et pauvres, mais c’est sur les indices qu’on s’oriente et c’est sur les preuves qu’on condamne. Les sensations sur les excroissances, ça m’éprouvant, c’est la route de la dictature de la subjectivité et des erreurs judiciaires.

「ぼくの原則とは正反対です」とダングラールは顔を強張らせた。「原則はふつう嫌いですよ、ぼくは。でも、人が、乳牛の耳にマークがついてるみたいに、刻印を捺されている、とは考えません。そうでなけりゃ、第六感で殺人犯を指名することになる。捜査というものは逆に、手掛かりを追い、証拠で犯人を挙げるものです。平凡なんです。華々しいところは何もない。イボみたいなものを感じるそのやり方は、ぼくは恐ろしいものだと思います。それは主観の独裁と司法の誤謬につながる道です」


ダングラールはこのとき、宝石泥棒の事件で共犯者として三年の刑を食らい、その二ヶ月後に刑務所で自殺した若い女のことで頭を悩ませていた。事件のあらましを聞いたアダムスベルグは、ダングラールに義理の息子を召喚するようにと言う。


* * *

— Si je comprends bien, dit Danglard, à vos sens, le pauvre type suppure?
— Je crains que oui, dit Adamsberg à voix basse.
— Et il suppure quoi?
— La cruauté.
— Et ça vous semble évident ?
— Oui, Danglard.
Mais ces mots étaient presque inaudibles.

「つまり、あなたの勘ではあの青年が臭いんですね?」
「残念だが、そうだ」と、アダムスベルグは低く言った。
「なんの臭い?」
「残酷臭」
「はっきり、そうなんですか?」
「そうだ、ダングラール」
その声はほとんど聞き取れなかった。


このように直感に従って捜査をするアダムスベルクだが、目下気になっている人物が、

青チョークの男。

夜な夜な直径2メートルほどの大きな青いチョークで描く男。そしてその円の中には、ビールの栓12個、革のバッグ、羊肉の骨、薬のチューブなどのガラクタが収まっている。道に落ちたガラクタを囲むこの男の奇癖を新聞各紙は面白おかしく話題にしていた。ところが、アダムスベルグはそこに、例の「残酷臭」を嗅ぎ取るのである。


そして、人捜しのために警察署へ訪れたマチルドと出会う。

* * *

Ma journée, elle est mal partie. Hier, avant-hier, pas mieux. Ça fait donc une tranche de semaine foutue.

「今日は朝から駄目なの。昨日も一昨日も、ましとは言えなかった。つまり、週の1ユニットが無駄になったの」

第一ユニットとは月火水、第二ユニットが木金土、そして第三ユニットは日曜日よ、とマチルドは説明するが、何の話だかさっぱりわからない。

Voilà. Si on regard bien, on voit plus de surprises sérieuses dans la tranche 1, en général, je dis bien en général, et plus de précipitation et d’amusement dans la tranche 2. Question de rythme. Ça n’alterne jamais, à la différence des stationnements pour voitures dans certaines rues, où pendant une quinzaine on a le droit de se garer, et pendant la suivante on n’a plus le droit. Pourquoi ? Pour reposer la rue? Pour faire jachère ? Mystère. (…)

そう。気をつけてみると、第一ユニットのほうでたいてい予期しないことが起こる。たいてい、ですけれど、ね。第二ユニットはガチャガチャ軽薄。リズムの問題よ。駐車禁止、道の片側が月の前半、次の十五日が反対側、っていう通り。これ、どういうのかしらね。通りを休閑地みたいに休ませるの? これは謎だけれど、(以下略)


やっぱり、さっぱりわからない。

あまりにも意味のわからない会話が続くので、そのうち分からなくても構わないという気分になってくるのだが、よくわからない登場人物たちの奇妙な会話も、ヴァルガス作品の魅力なのである。


さて、この謎めいた女性マチルドは、実は有名な海洋学者であり、興味を持った人物を尾行するという奇癖を持っている。


クセのある登場人物たちに、クセのある表現。
この独特の味わいが、やがて癖になるのである。


※ときに映像による情報は、私たちの想像力にフィルターをかけてしまうので注意が必要だが、ノートルダム大聖堂のかつての姿が見られる映像。



<お知らせ>
このところインプットのための時間が激減しており、しばらくの間投稿の頻度を下げる予定です。それに伴い、皆さまの記事を拝読する機会も少なくなるであろうことをお詫びいたします。
そんなこと誰も気にしていない、という声が聞こえそうな気がしないでもないですが、一寸の虫にも五分の魂と申しまして、日頃記事を読んでくださる皆さまへ一言お知らせしたかった次第です。


<原書のすゝめ>シリーズ(26)

※このシリーズの過去記事はこちらから↓


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