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失った煌めきを求める、物語。

題名も作者名もあらすじさえも知っているのに、読んだことのない小説。
ふだんの読書では、国内の作品を読むことが多いので、海外文学の、いわゆる"古典"と呼ばれる作品の中には、そんな小説がたくさんあります。

フィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」も、その中のひとつだったのですが、myさんの記事を読んで心を惹かれ、手に取りました。

myさんの記事にコメントを送った後で思い出したのですが、わたしも二十代の頃に読もうとして、一度挫折しているのですよね。
翻訳された作品を読むときに、自分の感覚に馴染む文章を書かれる翻訳者の方を見つけることは、やはり大事だと思います。

わたしが選んだのは、小川高義さんが訳されたもの。
以前、小川さんが訳されたジュンパ・ラヒリの「停電の夜に」を読んだときに、透明感のある文章だと感じた覚えがあったため、こちらを読んでみることにしました。


"ギャツビー"か、"ギャッツビー"か。
翻訳者の方によりことばの表記が異なるのも
海外文学の面白さのひとつ。

かつての恋人を取り戻す為に、富を築いて上流階級にのぼりつめ、夜毎に盛大なパーティーを開く男の話、というあらすじから抱く先入観とはうらはらに、語り手であるニックの声音は落ち着いた響きをもっていて、静かな気持ちで物語の世界の中に入ることができました。

主人公であるギャッツビーと、かつての恋人デイジーの内面は、デイジーの親戚であるニックの目を通して語られていきます。
ギャッツビーの心情はもちろんのこと、デイジーやその夫であるトムの感情も、ニックが描写する彼らの会話や振る舞いから推し量っていくことになるのですが、最初のうちは、磨り硝子越しにものを見るときのように、くっきりとした輪郭をつかめませんでした。

そんな登場人物達の心情に思いをめぐらしつつ読むうちに、鮮やかにそこだけが浮かびあがるような、一瞬の輝きをみせる文章に出会ったのです。

線路がカーブして、太陽からは離れていった。消えゆく町に祝福を授けるように、夕日がすっぽりと落ちかかる。彼女が生まれて息をした町だ。彼はもがくように手を伸ばした。たとえ一握りでも空気をつかみたい。彼女がいたおかげで美しかった町を、少しでもつかまえておきたい。そんな手つきになっていた。だが、にじんだ目で見る風景が、あまりにも早く遠ざかる。喪失感だけがあった。みずみずしい盛りの良さを、もう永遠に失っていた。

「グレート・ギャッツビー」フィッツジェラルド・作
小川高義・訳 光文社古典新訳文庫より

ことばの連なりを目で追っていると、ある考えが浮かんできました。

築いた地位も富も、身につけた言葉遣いや振る舞いさえも、何もかもが虚飾に過ぎないと誰よりも思っていたのは、実はギャッツビー自身ではなかったのでしょうか。

虚飾を現実に変えたい。
欠けたピースを埋めたい。
過去を取り戻したい。

失ってしまったからこそ、それはより強い輝きを放って見えるのだと思います。
だからこそ、全力で取り戻したいと願ってしまう。
ギャッツビーは、自分の心が昔から変わらないように、デイジーの心も同じだと思っていて、同じ状態で取り戻したいと考えたのでしょう。

けれども、人の心は刻一刻と移ろっていくもので、全く同じということはあり得ません。
そのことを、他ならぬデイジー自身の言葉で証明された瞬間、そんな記述は無いのにも関わらず、ギャッツビーの表情に亀裂が走ったのを見てしまったように感じ、思わずページをめくろうとする手を止めました。

そして思ったのです。
人は誰しも、自分の見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞いてしまうものなのかもしれない、と。

ギャッツビーの姿を見ていると、ふと、「源氏物語」の主人公の姿が重なる瞬間がありました。
求めても傍らに居ることが叶わなかったひとの面影を、生涯をかけて追っていた、その立ち姿です。

強い光を放つものがつくる影の色は、濃い。

次第に暗い色合いを帯びていく物語の終わり近くで、ニックに向けたギャッツビーの笑顔が、残像のようにまぶたの裏で明滅するのです。

ギャッツビーが幸福であったのか、不幸であったのかは彼自身にしか分からないのでしょう。
けれども、彼が抱えていた想いは、たぶんとても純粋なものなのだと感じます。
その純粋さゆえに、読み終えた後、透明な哀しみが心の中に残されたのでした。


記事をきっかけにして魅力的な作品と出会えるのも、
noteでの楽しみのひとつですね。
myさん、素敵な本を紹介してくださり、ありがとうございました。







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夏樹
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。 あなたの毎日が、素敵なものでありますように☺️