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やわらかな光を放つ、ひとつの思い出を胸に。

心の中のアルバムに、あざやかな映像が残っていて、いつまでも色あせないような一日。

ふだんは忘れているのですが、ときおり、過去の出来事を振り返りたい気分になることがあって、そんなときに決まって思い出す特別な一日が、わたしにはあります。


それは、約八年前、名古屋市で暮らしていたある日の出来事。
当時のわたしは、出勤するために外に出ることはできていたのですが、お休みの日は自宅にこもりがちでした。
出かけることがあっても、自宅近くのスーパーや本屋さんに行くくらい。
家の中で本を読むことや音楽を聴くことは好きだったのですが、それ以外のことにあまり興味をもつことができませんでした。それになんだか体も常に疲れているような感じで、最小限の家事だけをしたあとは、日中をほぼ眠ってすごすことも多かったです。

そんなわたしを見かねて、母がお休みの日には、百貨店や美術館に連れ出してくれたり、旅行に誘ってくれたりしたものですが、ひとが多い場所が苦手なこと、誰かと歩調を合わせることがうまくできなかったこともあいまって、外出先でしんどくなることも多かったです。最初のうちは楽しいと思えても、だんだん、はやく帰りたいという気持ちになってしまうのですよね。


けれども、ある日突然、"このままでいいの?"、という問いかけが浮かんできました。
"わたしはずっと、こんなふうにすごしたいのかな?"
とも思いました。

その当時のわたしは、今思えば目の前の仕事に打ちこみ過ぎていたのだと思います。
勤続年数が長くなるに従って、任される仕事の量も増えていき、お休みの日にも仕事のことについて考えている時間が長かったです。
日々の仕事を無事に終わらせることだけしか視野になく、真面目に業務に取り組む姿勢を周囲の方に評価して頂くこともありましたが、だんだんと自分の中が空っぽになっていくような心地がしていました。

"このままでいいの?"に対する自分の答えはひとつ。
"よくない…、わたしは、変えていきたい"

"でも、変えるためには、どうしたらいい?"
そう考えてひらめいたのは、"好きなことを思う存分楽しむ一日をつくる"ということでした。


そしてむかえたお休みの日。
わたしはバスに乗って、美術館へと向かいました。
ひとりで美術館に行くのは、その日がはじめて。
とにかく、ひとと接することに不安を感じていたので、チケットを購入するために受付の方とことばを交わすことにさえ緊張したのを、今でも覚えています。
(ちなみにその当時、自分の向き不向きもきちんとわかっていなくて、接客が必要な仕事をしていました。仕事だとわりきることで、出来ていたところもあったのかな、と思います)

そのときに見たのは、版画家の川瀬巴水の展覧会。
豊かな色彩があふれる作品には、穏やかな情感が滲んでいます。
作品の前で足をとめる度に、心のこわばりがゆるやかにほぐれていくのを感じました。
時間を忘れて、作品と対話を重ねることに幸福を感じ、思いきって出かけて良かったいう気持ちが込みあげてきたのです。

美術館をあとにして、お昼ごはんを食べるためにカフェに向かいます。
お昼ごはんといっても、目指していたのはパンケーキ。
お店の前には、かわいらしいメニューのイラストが描かれた看板が置いてあり、ふだんならおしゃれな雰囲気に気後れして入れないところですが、"今日はこのお店で食べよう"と決めていたので、勇気を出して入りました。

慣れないことをしているという感覚があり、席についてもそわそわとして、落ち着きません。
ですが、お店の方の話し方がやわらかく、笑顔も素敵なことにほっとして、次第に居心地の良さを感じはじめました。
せっかく来たのだからと考えて、二枚重ねのパンケーキに、ホイップクリームとキャラメルソース、そしてたくさんの果物が乗せられた贅沢なひと皿を選んだのです。

目の前に運ばれてきたパンケーキはとても綺麗で、見ているだけで心がはずみます。
ひとくちずつ、ゆっくりと食べ進めながら、"自分が好きなことをする。好きなものを選ぶって、こんなにも満ち足りた気持ちになるものなのだな"という思いが、胸の中に広がっていきました。

カフェを出たあとは、本屋さんや雑貨屋さんを巡ってから、かろやかな足取りで帰途につきました。
長い時間外にいたのにもかかわらず、あまり疲れを感じていなくて、そのことにも喜びを感じたのです。

その日を境に、わたしは徐々に、自分が行ってみたいと思う場所に足を運ぶことができるようになりました。
それはたとえば、以前から気になっていた喫茶店に行ってみる、電車を乗り継いで古本屋さんに行ってみる、なんていうささやかなことの積み重ねではあったのですが、小さな"好き"を大切にすることで、自分が本当に好きなものは何か、何を軸にして生きていきたいのか、ということが見えてきたように思うのです。

その積み重ねの先に見出したのが、"京都が好き。だから京都で暮らしたい"という気持ち。
そして、誰かの笑顔につながるような仕事がしたい、と思い、それまで全く経験のなかったお菓子づくりに携わる職場に移ることを決めました。

あの日、出かけてみようと思わなかったら、今のわたしはここにいない。

ふたを開けば静かな音色を奏でるオルゴールのように、思い出す度に、あの日の思い出はわたしの記憶の中で、やわらかな光を放つのです。



最後まで読んで下さり、ありがとうございます。 あなたの毎日が、素敵なものでありますように☺️