日記を書くこと、読むことの不思議さ。
残業が長引き、ふだんよりも家に帰るのが遅くなった夜のこと。
鶏肉とピーマンを甘辛く炊いたものの上に、五香粉をふりかけたつもりが、ふわっとシナモンの香りが漂いました。
「あっ、間違えた」
思わず口にして手を見れば、握っているのはシナモンの瓶。疲れているな、と思いながら気を取り直して上から五香粉をふりかけると、"あれ?これはたいして間違えてないのでは…"という考えが浮かびます。
ひとくち食べてみて、これはむしろ正解、と可笑しくなった後、思ったのです。
"あ、これは日記だ"、と。
毎日少しずつ、くどうれいんさんの「日記の練習」を読んでいるところで、読んでいると自分の日々の中で"これは日記だ"と思う瞬間がたくさんあって、そのことがとても楽しいのです。
毎日が同じ繰り返しのように錯覚してしまうときもあるけれど、本当はそうではなくて、むしろ毎日は全く違う日なのだということが、書くことを通して見えてくる。
手帳に短い日記を書くのはお休みの日のことが多いのですが、この夜の出来事は書いておこう思えました。
そうすることで、書き記したいと思った自分をも残しておくことができるから。
紙にペンを走らせながら、それにしてもわたしは誰かの書いた"日記"を読むのが本当に好きだな、と思います。
今までに読んだことがあるものを振り返ると、
「土佐日記」「紫式部日記」「和泉式部日記」「更級日記」「蜻蛉日記」「明月記」。
その他にも、
「断腸亭日乗」永井荷風 「富士日記」武田百合子
「日々ごはん」高山なおみ 「東京日記」川上弘美
「にょっ記」穂村弘 「読書の日記」阿久津隆
「『恥ずかしい料理』制作日記」梶谷いこ
などなど…。
noteでフォローしている方の中にも、日記を綴られている方がいて、更新を楽しみにしています。
ときに淡々と、ときに喜びや悲しみが鮮やかに記される、誰かの日々。
日記には、実際の出来事だけではなく、ほんのりと架空の出来事が混ざっていることもあって、そのことにもおもしろさを覚えます。
"どうして誰かの日記を読むのが楽しいと、読みたいと思うのだろう?"
そんな疑問を感じて、考えていたところ、"わたしとあなたは違う人だから"という言葉が浮かんできました。
わたしたちは、"わたしの人生"しか生きることができません。わたしはあなたの人生を生きることができなくて、だから、誰かの書いた日記は限りなくその人にとってのリアル(ノンフィクション)でありながら、それを読む他者にとっては、究極的に"フィクション"なのですよね。
読むことで、自分とは違う人の人生を疑似体験していることになるのでしょう。
"自分と他者は違うのだ"いう事実に絶望を感じることもあるけれど、誰かの喜びや悲しみに自分の心を添わせながら日記を読むと、その違いこそがとても豊かなことなのだと感じられて、心の中に光がさすような気がします。
それは他者の日記に対してだけではなく、自分が書いた日記に対してもいえることなのかもしれません。
何かを書き記すそうと思うとき、たとえばうれしい出来事が起きたとして、そのときの喜びの気持ちを振り返って書くことになります。
"喜んだ自分"と"それを書くときの自分"は、すでに全く同じ自分ではないのですよね。そしてそれを自分だけが読むのではなく、他の人も読むことを前提として書くのならば、文章を整えたり書き終えた後に推敲をしたりする。そうして書いた文章を読み直すと、自分自身の経験のはずなのに、他の誰かが書いたもののように感じられて、不思議な気持ちになることがあるのです。
「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」
そのような一文で門出を書き起こした紀貫之は、もしかしたら日記のある種の虚構性を分かっていたのかな、と思います。書くことで、他ならぬ自分の人生を、もう一度生きなおし、心のうちを見つめなおしていたのかもしれない。
記憶に残りもしないような小さなことを書き記し、忙しすぎて書くことが追いつかないと悔しさを覚えながら、それでもわたしは書いていきたいし、書くことはおもしろいのだと、力強く歌うように書いていくれいんさんの姿をみていると、心強さを覚えます。
わたしたちは昔から書くことが好きで、そして誰かが書いたものを読むことも好きで、これからもそれはきっと変わることがないのです。
この記事が参加している募集
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。 あなたの毎日が、素敵なものでありますように☺️