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ゆっくりと、ひとつひとつのことに向き合って。

夜明け前に、玄関を開けて表へ出ました。
西の空を見ると、満月が白い光を放ち、まわりの薄い雲が虹のような色を帯びています。
思わず見惚れてその場にたたずんでいると、月の下方にあった黒い雲がゆっくりと動いて月を隠していくのですが、薄雲の彩りは消えません。
月が完全に隠れるのを見届けてからその場を離れ、それだけの光景を目にしたことに、満ち足りた気持ちを抱いたのです。


自分でもびっくりするぐらい、わたしはマルチタスクが出来ません。
たとえば、音楽を聴きながら本を読む、料理をする、あるいは文章を書く、といったようなこと。
どれも試みたことがあるのですが、意識が分散するような感じがして、出来ないのですよね。

本を読むときは、ただ文字列を目で追って文章の内容を把握するだけではなく、ことばから連想するイメージを脳裏に思い浮かべていて、心の中で文章の音読もしています。色や光、温度、湿度、質感、音や香りもときに感じるので、実際に自分の外側に音がある状態(音楽がかかっていたり、テレビが点いていたりするとき)では、読書を進めづらいです。

今では、周りの音を意識の外に出すことで、喫茶店で本が読めるようになりましたが、二十代の頃には無理でした。
文章を書く際に、"コーヒーを飲みながら本を読む"という表現をすることもありますが、コーヒーに口をつけるときは、手にしていた本をいったん伏せて置きます。
カップにふれたときに指先に伝わる温もりや、照明を反射して光るコーヒーの表面、そして香りと味わい。
それら全てと、本から受けとる感覚を、同時に受容することが、わたしには難しいのです。

そんなふうにして読むので、一冊の本を読み終えるのに時間がかかります。
漫画なら、絵もことばも味わうので、より読むスピードは落ちますし、一度読んだだけでは全てを把握しきれず、読み終えてすぐの再読が必須。
漫画に関しては、人物の表情に感情を揺さぶられて、思いを同期させることが多く、ひとつのコマを長い間見つめるときもあります。


音楽を聴くときは、まぶたを閉じます。
音は聴くもの、なのですが、見えるものでもある。
なぜかそんな感覚があって、視界を遮断したほうが、ひとつひとつの音がくっきりと輪郭をあらわすように思えてなりません。
晴れている日よりも、曇っている日や雨降りの日の方が、音が深くまろやかに見えます。

音は、波。
さんずいからの連想で、水面に波紋が描かれるイメージがあるからなのか、音楽を聴いているとき、鼓膜の震えを通して、血液や細胞液にさざなみが立つ様子を思い浮かべることもあります。

何をするにしても、五感全部を使って、味わいたいと思ってしまう。
思ってしまうというよりも、思う前から、すでにそうした仕様だったと言うべきでしょうか。

自分自身のそうした特徴を、長い間、欠点だと捉えてきました。
要領よく、ということができなくて、今どきの言葉で表すならば、タイムパフォーマンスが悪い、ともいえます。
ゆったりとしたペースでしか物事を進められず、丁寧さを評価されることもあるけれど、「もう少し適当で良いよ」と言われることもしばしば。

受けとる感覚の豊かさに、疲れを覚えることも多々あり、一日のうちに用事をいくつもこなせず、人並みに動けない自分自身に、焦りを感じることもありました。

けれど、この頃ようやく、それでも良いのかな、と思えるようになっていることに気がつきました。
"世界の見え方は、人によって違う"
知識として持っていただけのこのことばを、確かな実感として感じられるようになってきたからです。

テンポよく歩いて、たくさんの景色にふれるほうが楽しい、という人もいれば、ゆっくりと歩みを進めて、足元に咲く花をじっくりと見つめるほうが心が満たされる、という人もいる。

そのどちらが優れているのか、という問いに意味はなく、ただ、その人の体と心の感覚にしっくりと合うほうを選ぶのが大切なのだ、ということ。
見える世界が違ったとしても、どちらかが正解で、どちらかが間違い、ということでもない。

わたしは、たくさんのことを一度にこなすことはできないけれど、ひとつのことに集中して、着実に行うことはできます。
それだけで充分で、その先を望むことは、自分で自分に負荷をかけることにしかならないということに、ようやく思い至りました。


月と雲と色彩の、わずかな間の動きを目にしただけで、その日いちにち、心の中に光が満ちている。

ささやかなことに、心を揺らされること。
ゆっくり、ひとつひとつのものごとに向き合うこと。

それはわたしの"芯"といえることだから、大切にしていきたいと思うのです。

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夏樹
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。 あなたの毎日が、素敵なものでありますように☺️