古典100選(79)排蘆小船

今日も、2夜連続で本居宣長の作品である。

『排蘆小船』(あしわけおぶね)といって、本居宣長が20代のときに書いた歌論書の処女作である。

「蘆」を「あし」と読むのに、「排蘆」を「あしわけ」と読むのは順序が違っているのではないかと思う人もいるだろうが、これは漢文の訓読(レ点で下から上へ読む要領)と思ってもらえればよい。

では、原文を読んでみよう。

①初学の人、歌を詠まむとて、まづ最初、詠まぬさきから、「去り嫌ひ」を吟味し、詞遣(ことばづか)ひを心得て詠まむとするほどに、おぼつかなく恐れてのみゐて、歌を詠むこと大抵にてはならず。
②これひがことなり。 
③まづ、いかやうにも構はず、我知らぬことはその分にうち捨てて、覚えてゐるほどの才覚にて、思ふ通りをなにごとも構はず詠み出だし、さて歌出で来て後に、大概「去り嫌ひ」など吟味し整へて、さて人に見せるときに、我え心得ぬこと、誤りなどあれば、添削す。
④これにて、かやうかやうの詞は詠まれず、かやうかやうは続かずと言ふやうのわけ知らるることなり。
⑤かくのごとくにして詠み慣らへば、自然と詠み方は覚えて、後にはいかやうとも心々の案じやうあり。
⑥善悪聞こゆる聞こえぬの分かち、その外のことも段々に知らるることなり。
⑦しかるを歌詠まぬはじめより詠み方を工夫するは、何の用に立たぬ無駄ことなり。 
⑧最初はただ古今、三代集ばかりをよくよく見て、さて歌を詠み、歌数(うたかず)詠みならへば、自然と詠み方は、聞きたり、見たり、案じたりするにて知れてゆくものなり。
⑨さて少々歌数も詠みて後には、詠み方の書を見ても合点もゆき、ためにもなることなり。
⑩つやつや知らぬうちに、まづ詠み方の書を見て、それにて歌を詠まむとするは、かへつてわざはひなり。
⑪なにの益もなきことなり。 
⑫三代集を見るとても、さのみ難しきこと、聞こえがたきことを、いちいち吟味せずとも、おほかたの歌の様子、詞遣ひ、趣向の立てやうなどを見習ひ、聞こえぬことは人に聞き、至りてやかましき所などは、ただ安らかなる説につきて心得置き、少々心得違ひありても苦しからず。
⑬ただただ、いく返りもいく返りも見ならひ詠みならふが肝心なり。
⑭右は初学の人のこの道に入る始めのことを言ふなり。
⑮段々功もゆき、歌学もせんと思ひ、この道に達せんとするときの仕方は、その時にはいかやうとも我が心にも合点もゆけば、学びやうあるべきことなり。
⑯まづはつやつや歌の訳(わけ)知らぬ人の、歌詠む始めの仕方は、ただ何にもよらず、三代集を父母として、外(ほか)を見ず、詠み方もなにも構はずに、何首も歌数を詠むほど、よき稽古はなきとおぼゆるなり。
⑰さて次第に何ごとも学び慣らふべきことなり。

以上である。

いかがだろうか。

歌詠みについてどのように学んでいけば良いかが論じられているが、初めからカッコつけて詠む必要はなく、その時点で身についていないことは気にせずに詠めと言っている。

詠み方について解説された本を見ても意味がないとも言っているが、これは、別に和歌に限らず、現代の私たちが何かを学ぶにあたっても、同じことが言えるのである。

例えば、私がこのnoteで古典100選シリーズを投稿しているが、そこで紹介する古典作品を理解するには文法の知識が必要だと思い込んで文法の解説本を手元に置く必要はない。

分からなくてもいいから、原文に何度も目を通してみるのである。

本居宣長は、上記の文章では、「三代集」を繰り返し読んで慣れろと言っている。

「三代集」とは、『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』のことである。

三代集には、すぐれた和歌が収録されている。

まずは、良い手本に何首も触れることで、解説書などを読まなくとも、歌詠みのポイントが自然と身についてくるものなのである。


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