古典100選(87)平治物語

保元元年(=1156年)に起こった保元の乱を題材にした『保元物語』とセットで語られるのが、『平治物語』である。

『平治物語』は、平治元年(=1160年)に起こった平治の乱のことが描かれている。

昨日の記事でも登場した後白河天皇が即位したのは、藤原通憲(ふじわらのみちのり)が鳥羽法皇の側近としていろいろ画策していたからである。

後に「信西」(しんぜい)と出家後の法名を名乗った彼は、平忠盛と清盛父子を厚遇したのだが、信西と同じく鳥羽法皇の近臣だったライバルの藤原信頼(のぶより)がこれに反発して、源義朝とその子頼朝・義経を巻き込んで平治の乱を起こした。

信西は最終的に自害するのだが、藤原信頼も平清盛の策略にはまって処刑され、源義朝も殺害された。

ただ、義朝の子の頼朝は、清盛の継母だった池禅尼(いけのぜんに)の助命嘆願により助かった。義経は、平治元年に生まれたばかりだった。

では、原文を読んでみよう。

①さても清盛公、兵衛佐(ひょうえのすけ)を助け置かれし時、よもただ今富家を覆さん人とは思ひ給はじ。
②同じく九郎判官の二歳にて、母の懐に抱かれけるを、我が子孫を滅ぼすべき仇と思ひなば、いかでか宥め給ふべき。
③これしかしながら、八幡大菩薩、伊勢大神宮の御計らひとぞ思ゆる。
④趙の孤児は袴の中に隠れて泣かず、秦の遺孫は壷の内に養はれて、人となると申せば、人の子孫の絶へまじきには、かかる不思議もありけるなり。
⑤義朝は、鳥羽院の御宇、保安四年癸卯(みずのとう)の年生まれ、三十四歳にして、保元元年に忠節をいたし、勲功を蒙ぶり、朝恩に浴しける。
⑥今度の謀反に組みして身を滅ぼしき。
⑦しかれどもまた頼朝・義経二人の子あつて、兵衛佐三十四、判官二十二歳にして、治承四年に義兵を挙げ、会稽(かいけい)の恥を清め、再び家を栄やかし給へり。
⑧頼朝は、近衛院久安三年丁卯(ひのとう)の年誕生す。
⑨義経は二条院平治元年己卯(つちのとう)の年生まれたれば、三人ともに、ひとへに閉(とづ)の年の人なり。
⑩中にも頼朝、平家を滅ぼし、天下を治めて、文治の始め、諸国に守護を据へ、あらゆる所の庄園、郷保に地頭を補して、武士の輩(ともがら)を諫め、廃れたる家を起こし、絶へたる跡を継ぎて、武家の棟梁となり、征夷将軍の院宣を蒙れり。
⑪卯はこれ東方三支の中の正方として、仲春を司る。
⑫柳は卯の木なり。
⑬三春の陽気を得て、天道恵みの眉を開き、営み繁く栄ふれば、柳営(りゅうえい)の職には、卯の年の人は、げに頼りありける者かな。

以上である。

上記の文章でお分かりのように、清盛にとっては、頼朝を生かしてしまったことで平家滅亡のきっかけを作ってしまった。

義朝・頼朝・義経は、3人とも「閉」(とづ)の年に生まれたと⑨の文に書いてあるが、これは今で言えば、干支が同じだという意味である。

つまり、ウサギ(=卯)年なのだが、現代で直近のウサギ年は2023年である。


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