20世紀の歴史と文学(1943年)

太平洋戦争は、日本が敗戦する1945年まで続くわけだが、この太平洋戦争中に惜しくも病気で亡くなった文学関係者は、中島敦だけではない。

中島敦と同じ1942年に病気で亡くなったのは、与謝野晶子である。63才だった。

1904年の日露戦争のときに、弟を思って反戦詩である『君死にたまふことなかれ』を発表してから30年後に、再び日本が戦争の道を歩み始めたことをどう思っていたのだろうか。

そして、1943年には、北原白秋と萩原朔太郎の2人が、それぞれ57才と55才で病死した。

さらに、部落差別をテーマにした『破戒』という小説を書いて話題を呼んだ島崎藤村も71才で病死している。

島崎藤村については、本シリーズですでに触れているので、これ以上は解説しないが、彼の晩年の大作である『夜明け前』は、ぜひ読むと良いだろう。

北原白秋については、7月の「唱歌の架け橋」シリーズで特集を組むつもりなので、詳しくはその特集をお楽しみいただければと思う。

そして、最後に萩原朔太郎であるが、彼の功績について知らない人は、しっかりと学んでおいたほうが良いだろう。

今日は、萩原朔太郎のことに触れておきたい。

本当なら1917年の出来事として取り上げたかったのだが、ロシア革命は絶対に外せないので、そちらを優先した。

萩原朔太郎が、北原白秋と同じ年に亡くなったのは、運命的なものを感じる。

彼が詩人デビューを果たしたのは、1913年に北原白秋の雑誌に「みちゆき」などの詩を発表したときである。

そこから室生犀星や芥川龍之介とも交流するようになったのだが、彼が一躍注目されたのは、1917年に『月に吠える』という詩集を発表したときだった。

この詩集は、森鷗外からも絶賛された。

そして、「詩は、ただ病める魂の所有者と孤独者との寂しい慰めである」と言って、新しい詩のあり方を目指し、「口語自由詩」を日本近代詩の父として確立させたのである。

それまでは、北原白秋と三木露風による「象徴詩」がよく知られていたのだが、萩原朔太郎は、「三木露風一派の詩を追放せよ」という批判的な文章も雑誌上に掲載し、新しい道を切り開いた。

三木露風といえば、「♪ゆうや〜けこやけ〜の赤とんぼ〜♪」の唱歌の作詞者でもある。

思想や感情などの内面世界を直接的に表現するのではなく、象徴的に表現する詩風が「象徴詩」だった。

萩原朔太郎の口語自由詩は、どのようなものか、『月に吠える』に掲載されている「掌上の種」という詩を紹介して終わろう。

掌上の種

われは手のうへに土を盛り、
土のうへに種をまく、
いま白きじようろもて土に水をそそぎしに、
水はせんせんとふりそそぎ、
土のつめたさはたなごころの上にぞしむ。

ああ、とほく五月の窓をおしひらきて、
われは手を日光のほとりにさしのべしが、
さわやかなる風景の中にしあれば、
皮膚はかぐはしくぬくもりきたり、
手のうへの種はいとほしげにも呼吸(いき)づけり。

以上である。

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