古典100選(59)弁内侍日記
今日は、後深草天皇がまだ7才のときに、宮廷で火事が起こったときのことが書き綴られている『弁内侍日記』(べんのないしにっき)を紹介しよう。
弁内侍は、藤原隆信の孫である。
本シリーズ第41回で登場したが、藤原定家とは遠い親戚にあたる。後深草天皇は、4才のときに即位していたが、原文では「御所」が後深草天皇を指す。このときはまだ、弟の亀山天皇は生まれていなかった。
では、原文を読んでみよう。
①二月一日、夜更くるほど、台盤所(だいばんどころ)より参りて、鬼の間の布障子掛けむと思ひしかども、灯火の影もかすかにて、常よりはいかにやらんおぼえて、朝餉(あさがれい)より常の御所へ参りたれば、宮内卿典侍殿、兵衛督殿、勾当内侍殿など候はせ給ふ。
②御所もいまだ御夜にもならせおはしまさず、御手習などありて、「おもしろく思はむ詩、書きて参らせよ」と仰せごとあれば、「蒹葭洲裏孤舟夢」と書きて、そばに弁内侍、
身ひとつの 愁へや波に 沈むらむ
蘆(あし)のかりねの 夢もはかなし
など書きて、「秋の詩はいづれもおもしろくてこそ」と、さまざま申すほど、御番に公忠中将候ふが、まことに騒ぎたるけしきにて、「笑止の候ふ。皇后宮の御方に火の」と言ふ。
③あさましともおろかなり。
④あまりうつつともなくて、柳の薄衣、裏山吹の唐衣着たりしを脱ぎて、袴ばかりにて局(つぼね)へすべりて、荒らかに叩きて、急ぎ竿なる梅襲(うめがさね)の衣に葡萄染(えびぞめ)の唐衣重ねて参りたれば、勾当内侍殿やがて夜の御殿へ入りて、剣璽取り出だし参らす。
⑤油小路(あぶらこうじ)の方へ行く。
⑥御所も二位殿抱き参らせて、中納言典侍殿、宮内卿典侍殿など、皆続きて参り給ふ。
⑦少将内侍は大原野の使ひに立ちて、心地わびしくて、局に臥したりけるが、荒く叩く音に驚きて、火と聞きて急ぎ御所へ参りたりければ、人もおはしまさず、煙は満ちたり。
⑧いづ方へ行幸もなりつらんと、あさましくて、まどひありくほどに、夜の御殿の一間に「やや」と言ふ人あり。
⑨化物(ばけもの)にやと恐ろしながら行きて見れば、何やらんの三御衣(みつおんぞ)に薄御衣(うすおんぞ)重ねて、さしもの騒ぎの中にも、さまよくもて隠して、御髪の懸かり、御額の髪、御丈まで懸かりたり。
⑩宣旨(せんじ)殿、御太刀持ちて、「これは、いづくへか具し参らすべき。按察三位(あぜちのさんみ)殿に申せ」と仰せらるれども、「いづくとも、これも知り候はぬ」とて、油小路面(おもて)の端の方へ出でたれば、ひしと人々おはします。
⑪「かく」と申せば、兵衛督殿、「導き参らせん」とて、おはしましぬ。
⑫一番に権大納言殿の車参りたるに、御所、皇后宮、中納言典侍殿、宮内卿典侍殿乗らせ給ふ。
⑬門の外にてぞ御輿には召し移りける。
⑭皇后宮、冷泉大納言殿の肩を踏まへて召し移るべきよし侍りけれども、何となきさまに、やすやすとぞ召し移りける。
⑮権大納言、万里小路、冷泉大納言など、そのまぎれにもゆゆしげに急めきあはれけるに、中納言典侍殿よく御介錯して、下簾にてとかくまぎらはしてぞ、御輿には召しける。
⑯「夜目にも御ことがら、ただの人には見えさせ給はざりし」とぞ、後に語り給ひし。
⑰剣璽は、二位殿の召したる御車に、勾当、弁内侍持ち参らせて乗りたりしを、「御輿にもおはしまさで、取り出だし参らせざりけるにや」と、何の中にも騒動にてありけるに、「持ちて出で給ひつる人おはしましつ」と言ひけるとてか、「誰か見つる」と言はれけるに、兵衛督殿、「一定(いちじょう)、勾当、弁取り出で参らせつる」とありければ、「勾当、弁、召したる御車は何れぞ、何れぞ」と、馬を早めて走り違ひ走り違ひ尋ねられし。
⑱「何事ならむ」と思へば、「剣璽はおはしますか、おはしますか」とぞ、あへたぎて声の変るほど尋ね、「おはします」と言ふに、なほ「一定にや」と問はれし、げにもことわりなり。
⑲玄上(げんじょう)は、憲説(のりとき)ぞ取り出だし参らせける。
⑳大納言たち、移し馬に乗りながら、あるは弓持ち、矢負ひなどして門に立たれたりし、夢の心地していとあさまし。
㉑さりながら、「延喜天暦のかしこき御代にもあまた度(たび)侍りける」など仰せらるる人々もありしかば、弁内侍、
焼けぬとも またこそ立てめ 宮柱
よしや煙の あとも嘆かじ
以上である。
後深草天皇は、火事から無事避難できたことが読み取れるが、もうひとつ重要なのは、弁内侍たちが「剣璽」も持って逃げていることであり、ちゃんと剣璽を忘れずに持ち出したかどうか、確認をされている場面もある。
「剣璽」は、平成から令和に変わったときも「剣璽等承継の儀」で披露されたと思うが、天皇の交代に伴って受け継がれる伝統的な財宝である。
そのほか、⑲の文でも分かるように、憲説(のりとき)という人が、玄上の琵琶も持ち出している。
興味深い話だ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?