古典100選(66)折たく柴の記

国学者だった本居宣長が生まれる5年前に68才で亡くなったのが、朱子学者の新井白石である。

その新井白石が書いた『折たく柴の記』は有名である。

新井白石は、1716年に8代将軍に徳川吉宗が就任するまでは、幕府の要職に就いて「正徳の治」などを行なったのだが、譜代大名から不評を買い、吉宗にも、将軍就任早々罷免された。

『折たく柴の記』は、罷免された年に書き上げたものである。

では、原文を読んでみよう。

①昔、人は言ふべきことあればうち言ひて、その余(よ)はみだりにもの言はず、言ふべきことをも、いかにも言葉多からで、その義を尽したりけり。
②我父母にてありし人々もかくぞおはしける。
③父にておはせし人の、その年七十五になり給ひし時に、傷寒(しょうかん)をうれへて、事切れ給ひなんとするに、医(くすし)の来りて、独参湯(どくじんとう)をなむ勧むべしと言ふなり。④世の常に人に戒め給ひしは、「年若き人はいかにもありなむ。齢(よわい)傾きし身の、命の限りあることをも知らで、薬のために息苦しきさまして終りぬるはわろし。あひ構へて心せよ」とのたまひしかば、「このこといかにやあらむ」と言ふ人ありしかど、「疾喘(しつぜん)の急なるが、見参らするも心苦し」と言ふほどに、生姜汁にあはせて勧めしに、それより生き出で給ひて、つひにその病癒え給ひたりけり。
⑤後に母にてありし人の、「いかに、このほどは人に背き臥し給ふのみにて、またもののたまふこともなかりし」と問ひ申されしに、「されば、頭の痛むこと、ことにはなはだしく、我いまだ人に苦しげなる色、見えしこともなかりしに、日ごろに変はれることもありなむには、しかるべからず。また、世の人、熱に冒されて、言葉の過ち多かるを見るにも、しかじ、言ふことなからむにはと思ひしかば、さてこそありつれ」と答へ給ひき。
⑥これらのことにて、世の常のことども、思ひはかるべし。
⑦かくおはせしかば、あはれ、問ひ参らせばやと思ふことも、言ひ出でがたくしてうち過ぐるほどに、亡(う)せ給ひしかば、さてやみぬることのみぞ多かる。

以上である。

「【続編】歴史をたどるー小国の宿命」の第65回で、新井白石の『折たく柴の記』を取り上げているが、新井白石の書いていることは、少々分かりにくい部分もある。

上記の文章は、『折たく柴の記』の序文であるが、④の内容は、年老いて余命がそんなにない人に薬を飲ませてさらに苦しませるようなことは良くないということを、白石の父親が言っていたわけである。

それを知っていた人が、「この場合どうすべきか」と思慮したわけだが、生姜汁とともに併せ飲む方法を取ったところ、治癒したというお話である。

それで、白石が言いたいことは、「言うべきことは言い、余計なことは話さず、なるべく限られた言葉で大義(=大切な事柄)を人に伝えるのが良い」ということなのだが、病床にあっては周りの人が心配するからなるべく話したほうが良いのではないかと思う人に対して、「熱に侵されて(うわごとのように)誤った事柄を伝えてしまうこともあるから、やはり話さないほうが良いのだ」ということなのである。

だが、⑦の文にもあるとおり、父親が亡くなった今となっては、もう少しいろいろ聞きたかったという思いも残る。

寡黙な人間の心の内は、今も昔も、なかなか推し量ることが難しい。

余計なことは言わないスタイルが美徳だとする見方も多い。

そういう人のほうが、口が堅いゆえに高い信頼を得ているのも事実である。

だからこそ、私たちも、その人自身の胸の内は、あえて知ろうとしなくても良いのではないだろうか。

昔の父親は、そうやって威厳を保っていたのである。

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