古典100選(100)兼好諸国物語【最終回】

これまで本シリーズをお読みいただき、ありがとうございます。

最終回となる100回目は、私の好きな『徒然草』の作者である兼好法師のことが書かれた物語を紹介したい。

『兼好諸国物語』も、昨日の『西鶴諸国ばなし』と同じ徳川綱吉の治世に刊行されたものである。

というのは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて成立したとされている『徒然草』は、実は300年後の江戸時代初期に発見されたものだからである。

江戸時代は、元禄文化が栄えた頃(=井原西鶴が活躍した時代)、出版業が隆盛を極め、京や大坂や江戸を中心に、図書の流通が広がり、庶民にも広く書物が読まれた時代である。

兼好法師の物語も、多くの人に親しまれたことだろう。

では、原文を読んでみよう。

①兼好法師、河内路を過ぎ、津の国の方へ心ざして行き侍る道のほど、ある山陰に、三十(みそじ)余りの男の、武士と見えて、片方に刀を抜き置きて,岩陰の平らかなる所につい居て、掌を合はせ念仏するさま、正しくただ今自ら命を失ふべきよしなり。
②いとあやしうおぼえて、しばしやすらひまもり居るに、思ひまうけしことのさへられぬとや思ひけん、刀を取り持ちて、かなたの方へ行かんとするを、とどめて、ゆゑを問ふに、つつみて語りあへず。
③兼好、「思ひ立ち給ふことも侍りと見ゆ。さるべくは、ゆゑを語りて、望みをも遂げ給へかし。自ら跡を弔ひて参らすべし」と言へば、かの男、「さてはありがたくこそ侍れ。我は、錦織の判官代と申す人に仕へし山原小太郎と申す者にて侍り。昨日、笠置(かさぎ)の軍(いくさ)敗れにしかば、錦織親子、命を限りに戦ひ侍りて、我も同じ道にと心ざし侍るに、『古郷の方へ限りのありさまを告げよ』と親子の人の聞こえしを、とかく辞(いな)み申しけれど、強ひて同じ趣きを聞こえければ、かひなき命長らへこれまでは来り侍りしが、思へばいと口惜しく思ひなりにて侍るより、かう志しぬることになん。亡からん跡を弔ひ給はらましかば、いかにありがたく」などいひけるに、兼好、「御心のほどは剛なる方も侍れど、さしも君の掟て聞こえしことを背きて身を捨て給はんこと、この世後の世ともにいと罪重かんめり。しかじ、願はくはさまをも変へ、君の掟て思ひしままに古郷人にも告げ知らせ、長くかの菩提をも弔ひ給ひてんには」と言ふより、すべて後の世の事ども仏の教への筋の貴くありがたき品々を述べ聞こえければ、この男、理(ことわり)を思ひ知り、やがて頭おろして、兼好法師の弟子と契りて、まづかの古郷になん行きけるが、後、兼好を慕ひ来て、ともに住みつつ、行ひ澄ましてぞありける。
④寂閑と聞こえしは、この人なりともいふめる。

〈評註〉
⑤「笠置の軍破れ」とは、北条時政九代の後、相模入道崇鑑(そうかん)、天下の執権にて政道正しからずしてその行跡はなはだ悪しきゆゑに、後醍醐院、これを滅ぼさんとし給ふを、崇鑑、使ひを鎌倉より上せて主上を流し奉らんとのことを、主上、密かに叡聞ありて、南都の方へ落ちさせ給ひて、笠置の石室に皇居なりければ、崇鑑方の京都の両六波羅より軍勢を催して攻め寄せ、官軍討ち負けて、主上をはじめ奉り、月卿雲客(げっけいうんかく)また落ち行かせ給ふことなり。
⑥元弘(げんこう)元年九月のことなり。
⑦委しくは『太平記』に見えたり。

以上である。

南北朝の動乱に生きた兼好法師と、ある武士との出会いやその後の成り行きについて、感動的な描写がされている。

評註に書かれている相模入道崇鑑とは、時の執権・北条高時である。

後醍醐天皇の倒幕の様子など、本シリーズでも紹介した『太平記』と併せて読むとよいだろう。

『徒然草』も、別シリーズで読み直していただけるとありがたい。


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