古典100選(63)誹諧世説

今日は、江戸時代の1785年に、闌更(らんこう)という人が書いた『誹諧世説』(はいかいせせつ)を紹介しよう。

「俳諧」と書く人もいるが、この作品は「誹諧」と表記するようである。

では、原文を読んでみよう。

①嵐雪が妻、唐猫(からねこ)のかたちよきを愛して、美しき布団を敷かせ、食ひ物も常ならぬ器に入れて、朝夕膝もとを離さざりけるに、門人、友どちなどにもうるさく思ふ人もあらんと、嵐雪、折々は、「獣(けもの)を愛するにも、ほどあるべきことなり。人にもまさりたる敷き物、器、食ひ物とても、忌むべき日にも猫には生魚を食はするなど、よからぬこと」とつぶやきけれども、妻しのびてもこれを改めざりけり。
②さてある日、妻の里へ行きけるに、留守の内、外へ出でざるやうにかの猫をつなぎて、例の布団の上に寝させて、魚など多く食はせて、くれぐれ綱ゆるさざるやうに頼みおきて出で行きぬ。
③嵐雪、かの猫をいづくへなりとも遣(つか)はし、妻をたばかりて猫を飼ふことをやめんと思ひ、かねて約しおける所ありければ、遠き道を隔て、人して遣はしける。
④妻、日暮れて帰り、まづ猫を尋ぬるに見えず。⑤「猫はいづくへ行き侍る」と尋ねければ、「されば、そこのあとを追ひけるにや、しきりに鳴き、綱を切るばかりに騒ぎ、毛も抜け、首もしまるほどなりけるゆゑ、あまり苦しからんと思ひ、綱をゆるして魚などあてけれども、食ひ物も食はで、ただうろうろと尋ぬるけしきにて、門口、背戸口、二階など行きつ戻りつしけるが、それより外へ出で侍るにや、近隣を尋ぬれども今に見えず」と言ふ。
⑥妻、泣き叫びて、行くまじき方までも尋ねけれども、帰らずして、三日、四日過ぎければ、妻、袂(たもと)を絞りながら、 

猫の妻    いかなる君の    うばひ行く      妻

⑦かく言ひて、心地悪しくなり侍りければ、妻の友とする隣家の内室、これも猫を好きけるが、嵐雪がはかりて他所へ遣はしけることを聞き出だし、ひそかに妻に告げ、「無事にて居侍るなり。必ず心を痛め給ふ事なかれ。我が知らせしとなく、何町、何方へ取り返しに遣はし給へ」と語りければ、妻、「かかることのあるべきや。我が夫、猫を愛することを憎み申されけるが、さては我をはかりてのわざなるか」と、さまざま恨みいどみ合ひける。
⑧嵐雪もあらはれたるうへは是非なく、「実に汝(なんじ)をはかりて遣はしたるなり。常々言ふごとく、余り他に異なる愛し様(よう)なり。はなはだ悪しきことなり。重ねて我が言ふごとくなさずは、取り返すまじ」と、さまざま争ひけるに、隣家、門人などいろいろ言ひて、妻にわびさせて、嵐雪が心をやはらげ、猫も取り返し、何ごとなくなりけるに、 

睦月(むつき)はじめの夫婦
いさかひを人々に笑はれて
喜ぶを    見よや初子の    玉帚(たまばはき) 嵐雪

以上である。

平安時代の作品には、文中に和歌が挿入されていたが、江戸時代の俳諧に関する作品には、俳句が入っている。

この作品に登場する「嵐雪」(らんせつ)は、芭蕉の弟子だった人であり、芭蕉にとって宝井其角(たからい・きかく)と服部嵐雪(はっとり・らんせつ)は、桃と桜の花に例えるほど、優秀な二大弟子だった。

この作品を書いた高桑闌更(たかくわ・らんこう)は、1726年生まれで、芭蕉がすでに亡くなってから30年ほど経っていたが、俳諧師として芭蕉の作品を研究していた人である。

最後の「喜ぶを見よや初子(はつね)の玉箒」という俳句は、「初子」と「玉箒」の意味が分かっていれば、夫婦喧嘩が無事に収まったのをめでたしめでたしという意味で締めくくった嵐雪の思いが表れていることに気づくだろう。


いいなと思ったら応援しよう!