法の下に生きる人間〈第34日〉
教育基本法が改正される直近3ヶ月前は、第3次小泉改造内閣から、第1次安倍内閣へとまさに政治が動いている最中であった。
今日は、法律からちょっと離れて、6年前に大きな議論を呼んだ出来事に触れることにしよう。
その前に、文科省のホームページでは、改正教育基本法の素案について、小泉内閣の小坂文部科学大臣と安倍内閣の伊吹文部科学大臣、さらには小泉・安倍元総理の委員会質疑応答時の答弁記録が公表されている。
その答弁記録を読んでみると、改正教育基本法の条文の内容について、なんとなく理解できるかと思う。全87ページあるので、時間のあるときに目を通してみるとよいだろう。
さて、この答弁の年からさらに11年が経った2017年3月31日、第3次安倍内閣は、「学校において、教育に関する勅語をわが国の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切であると考えているが、憲法や教育基本法等に反しないような形で教育に関する勅語を教材として用いることまでは否定されることではない」との考えを示した。
ここで、なぜ明治時代から戦前の教育で登場した教育勅語(=教育に関する勅語)が出てきたのか覚えているだろうか。
学校法人森友学園が運営していた塚本幼稚園が、幼児に教育勅語を朗唱させていたことがニュースになったからである。
森友問題はご存じのとおり、これとは別の案件で裁判にまで発展した。ここでは、これ以上のことは話がずれるので触れない。
ただ、安倍内閣が「教育勅語を教材として用いることまでは否定されることではない」というのは、森友学園の教育方針を否定していないことになり、現行の教育基本法や学校教育法に照らしてこの見解はいかがなものかと大きな議論を呼んだのである。
では、教育勅語の何が問題でこのような議論が起こるのか、私たちは説明ができるだろうか。
そして、教材として用いることを支持するならば、教育勅語のどういったところが有用なのか、私たちは理解できるだろうか。
現行の教育基本法第11条が「幼児期の教育」について言及していることも踏まえて、明日は、実際に教育勅語の内容をみていくことにしよう。
学問だけではなく、情操教育という視点で捉えることがこの問題の核心となっているのである。