現代版・徒然草【93】(第199段・音階の話)
私たちが知っている西洋の音楽、いわゆるクラシックは、有名なバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの活躍した時代のあとに、日本に入ってきた。
兼好法師が生きていた時代には、彼らはまだこの世にいなかった。
バッハは1685年、モーツァルトは1756年、ベートーヴェンは1770年に生まれた。つまり、日本で言えば3人とも江戸時代に生まれたのである。
だから、鎌倉時代当時に日本で知られていた音楽といえば、中国から入ってきた音楽ぐらいだった。
では、原文を読んでみよう。
横川の行宣法印(ぎょうせんほういん)が申し侍りしは、「唐土(とうど)は呂(りょ)の国なり。律(りつ)の音なし。和国は、単律の国にて、呂の音なし」と申しき。
以上である。
この段の文章のキーワードは、律・呂の2つの音階である。
律音階とは何ぞや?、呂音階とは何ぞや?ということが分かっていないと、行宣法印という人が言ったことはどういうことなのか理解できないだろう。
兼好法師も、たった一文で、行宣法印がこう言ったということだけ触れて終わっているので、音階のことが分かっていたのかどうかは怪しい。
ただ、行宣法印の言ったことを現代風に言い換えるならば、「中国は、呂の国であり、律の音はない。日本は、律の国で、呂の音はない。」ということであり、両国は対照的だと言っているわけである。
この行宣法印が生きていた時代は、兼好法師と同時代の鎌倉時代だと思うのだが、日本の伝統音楽である雅楽は、元はと言えば、飛鳥時代から平安時代にかけて(=中国の唐の時代)入ってきたものであり、当初は「呂音階」だったわけである。
ただ、漢字が中国から日本に伝わったあとに、日本独自の仮名が生まれ、現代の私たちが平仮名として親しんでいるように、「呂音階」も微妙に日本人に合った音階に修正されたのである。
それが、行宣法印の「単律の国にて、呂の音なし」(=音階が変えられただけで最初から律音階だったわけではない)ということだったのだ。
一般的には、レミソラシレの音階(=ドとファが抜けている)が律音階とされ、「ミとソの間」と「シとレの間」は他の音同士の間隔より半音の差がある。
呂音階は、ドレミソラドの音階であり、ファとシが抜けている。「ミとソの間」と「ラとドの間」は他の音同士の間隔より半音の差がある。
口に出してみると分かると思うが、音の上がり調子が微妙にズレている。
それによって、陽と陰のように、印象の差が出る。西洋音楽でいう長調と短調のようなものである。
この呂音階は、実は、明治期に復活して、「ヨナ抜き音階」(=ファとシの順番を表す4と7)として唱歌などで多用されているのである。
西洋からクラシックが入ってきたことで融合されたのが、現代の日本の音楽である。