歴史をたどるー小国の宿命(76)

このシリーズで以前にも触れたが、平安時代半ばの平将門の乱と藤原純友の乱を覚えているだろうか。

日本でこの乱が起こる直前に、朝鮮半島では、新羅が「高麗」(こうらい)という国に滅ぼされ、高麗が朝鮮半島を統一した。

つまり、今の韓国と北朝鮮の領土を占める国が、高麗だったのである。

高麗は、935年から1230年まで300年近くは、国家として存続していたが、1231年からたびたびモンゴル帝国の侵攻を受けるようになった。

そして、1259年にとうとう降伏し、モンゴル帝国の属国となった。

その高麗から使節が来日し、モンゴル帝国、つまり元の国書が鎌倉幕府に届けられたのが1268年の正月である。

日本も、高麗と同じように、モンゴル帝国に服属する危機が訪れたのである。

北条時宗は、18才にして、日本の運命を左右する重責を背負うことになる。ただし、彼一人で判断したわけではなく、周りの人間とも協議は行っている。

結論を言えば、時宗は、この元からの国書に対して一切返事をしないという対応を取った。元は、それでもなお、服属の要求をしてきたが、黙殺したのである。

そうすると、元からじきじきに官僚が来日し、武力侵攻の警告をしてきた。それが、1271年のことであり、最初の元寇の3年前であった。

時宗は、それでも要求には応じず、しかし、九州の御家人に対して、太宰府の警備を強化するよう命じ、来たるべき戦争の準備を整えるようになった。

この時宗は、恐るべき人物であり、のちに元からの使節に斬首刑を命じるなど、厳しく対応する。

さて、二度の武力侵攻がいよいよ勃発する。明日は、その状況について解説していこう。




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