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開巻有得〜世界へのかかわり方〜

私が「自分に責任をもてている」という自負心をもって
ポジティブにアクティブをやっていた頃の頭の中を
代弁するような本と出会いました。
その内容に、「わかる!!!」と興奮状態になった
思い入れのある本がこちらです。

橋本治著『「わからない」という方法』


「わからない」をスタート地点とすれば、「わかった」はゴールである。
スタート地点とゴール地点を結ぶと、「道筋」が見える。
「わかる」とは、実のところ、
「わからない」と「わかった」の間を結ぶ道筋を、
地図に描くことなのである。
「わかる」ばかりを性急に求める人は、地図を見ない人である。
常にガイドを求めて、「ゴールまで連れて行け」と命令する人である。
その人の目的は、ただゴールにたどり着くことだけだから、
いくらゴールに辿り着いても途中の道筋が全くわからない。
だから、人に地図を書いて自分の通った道を教えることができない。

まえがき

「わかる」ために、
自分が「わかっていない」ことを素直に認める。
それが、実務家であるためのスタート地点だと
私も思います。

「わからないけどやる」は度胸である

「わからない=恥」
…誰もがこの日本人的な美意識に従ってしまうとどうなるか?
「ぐずぐずしているだけでなにも始まらない」という、
いたって日本人的な膠着状態が出現する。

この膠着状態が、私が感情的に嫌いなことです。

しかも、日本人はずるいから、
そのぐずぐずしているだけの自分達のていたらくを肯定するために、
生贄さえをも選び出す。
みんなが「わからないからやらない」という
「恥」の美意識の中でぐずぐずしていると、
ここに時として、「じゃ、俺がやる」という
おっちょこちょいが飛び出したりもする。これが生贄である。

第1章 「わからない」は根性である

うっかり飛び出したこともありました。
しっかり生贄になったと思います。

シンパシーは同情、エンパシーは共感。
同情シンパシー
「彼のいうことの中に自分の経験を思い出して同調すること」、
共感エンパシー
「相手を自分と同一視せず、彼の心情を慮って惻隠すること」
を言うそうです。

私は、以下の開き直りに、自分の身に起こった経験を思い出しました。
…シンパシーの方ですね。

結局「一人で地を這う」しかない

なにかをするに当たって、「めんどくさい」のは当然のことだと思っている。
「めんどくさい」のは事実だから、「めんどくさい」「めんどくさい」とは言うが、
私は「めんどくさいことをやる」ということに関しての覚悟ばかりはできている。
私には、それ以外の方法がないのである。
[中略](周りの人間は)「なんか、役に立つことありますか?」とは言ってくれる。
しかし、自分の仕事を始める時の私は、
なにをどうしていいのかが全然わからないのである。
「人に指示を出す」というのは、
ある程度以上に段取りがわかってから可能になることなのだから、
何にもわからないでいるへんな作家は「こういうことをして下さい」と
頼むことさえもできないのである。

第4章 知性する身体

私が事務員としてこの感覚を経験した時は、

職場をまともに機能させなくてはという切迫感
(と、仕事に没頭することの気持ちよさ)から
かなりその仕事にのめり込んでいたんですが、
パートさんから空き時間にする仕事はないかと聞かれて
対応できずに立ち往生することがしばしばありました。

その職場での
私にとっての「仕事」は、
「よくわからな」くても
やらざるを得ないから
毎日学ぶつもりで必死に喰らいつき、
そうした学びを積み重ねていくことで
いつの間にか対応できるようになっていた
ものでした。

「わかっていない」ことが恥ずかしいという風潮も
確かにあったので
「自分が今わかっていない」ことを開示する代わりに
「教えてもらったらしっかり覚える」と請け負うことで
信頼を得ようとしていました。

そのための工夫として、
「わかる」ために、
作業工程の道筋を記録していたのが
のちの引き継ぎの時に役に立ちました。

ただ、日々目前の仕事に追われる中で、
立ち現れてくる問題に対応した後
どうなるかを予測することはできませんでしたし、

何が今稼働していない(誰もしていない)仕事で、
何が動かしておいた方がいい仕事なのかを
把握することもできませんでした。

何かが起こったその場面では理解や対応ができず、
時間差で思い出したり理解したりして
「なぁんんでぇ、今!!!!」
と歯痒い思いをしたこともあります。

私にとって、すべては「自分の中から出てくるもの」であって、
それが出てくるまでは平気でなんにもわからない﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅
ただ一人でウロウロして、その内に、
いろんなことを思い出し﹅﹅﹅﹅たり見つけたりして、
そうなった時には、もう[周り]の出る幕なんか無くなっている。
結局私は、一人で全部をやるしかなくなっていて、仕事中の私には話し相手もいない。
それは当然のことだから、べつに嘆きもしない。
すべての仕事は「一人で地を這うだけ」なのである。
私はそういうものだと思っているので、
実のところ、それで一向にかまわないのである。[中略]
地を這っていさえすれば、その内に「自分の言いたいこと」は言えるようになるのである。だから私は、いくらでも平気で地を這っていられる。
「方向はあっちだ」がわかっていさえすれば、
私はなんであっても一向に平気で、
たとえ「方向」がわからなくても、
「そのうちどっちかはわかるだろう」と思うから、
それはまたそれで、一向に平気なのである。

当時は、
確かなことが言えないことへの申し訳なさ
みたいなものに取り憑かれ、
ひとり反省会の時に
重箱の隅を突くような改善案を捻出したりしていましたが

2年越しに本書を読んで、
「平気でなんにもわからない」で良かったんだと
思わず頬が緩みました。

その職場を退くに至るまでの出来事と、
それに付随する苦い記憶を思い出して
仕事にのめり込もうとするのを
自分で制限する思考が湧くこともあったからです。

こういうやり方でいいなら
私はきっと納得した仕事ができると思いました。

自分の仕事と思っていれば、
「一人で地を這う」こと自体は、大歓迎なんですから。

2024年2月14日 拝

ラッキーセブンというやつです。

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