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遊戯三昧〜遊ぶように仕事がしたい〜【三】

本当に活きたいのなら場所は選ばないといけない


座右の銘は「直心是道場」。
「置かれた場所で咲く」実践

地元に骨を埋めるつもりで働くと気負って入った組織は、
定年制の年功序列型ルールで成り立っていました。

私はこのとき、
「置かれた場所で咲きなさい」と言う言葉を実践してみたんです。
大学時代、本屋でアルバイトをしていたときに
ベストセラーになった本で、店頭に並んでいるのを眺めているうちに
このメッセージが頭から離れなくなったんですよね。

当時理想として掲げていた、
「どこででもやっていける」ような人物になるには、
まず「今ここ」で踏ん張らなきゃ話が始まらないと思っていたからです。

当時の座右の銘。

これがいいとか、あれは嫌だとかいった執着分別を離れて直心となったとき、
どこであっても、そこが道場となっていることを言う。
心次第で、どこであっても道場になり得るということ。


「できなくて悔しい」という思いを原動力に、
「できた」という達成感を報酬に動いていくと
そのうち元々苦手意識を持っていたことに対しても、
「やったらわかる」といった具合に
挑戦のハードルが下がって行きます。

私は元々、内向的な文学好きだったので
理数系とかIT関係のたぐいにはぽんこつのがあったのですが、
それまでの成功体験と、
動かなきゃ現場は回らないと言う逼迫感ひっぱくかんから、
突き動かされるように雑務にのめり込んでいきました。

言っても、最初はせいぜい
「こどものつかい」みたいなもんでしたけど
いろんな往信おうしんを承って
うろちょろかけずり回るうちに、
少しずつ理解できることも出てきて、
考えられるようになり、
見えていない部分も
なんとなく想像できるようになって行きました。

わからないのもできないのも、未経験だから
当たり前。
本当にわからないのか、できないのかは
やってみたら分かる。
思いがけないひらめきや推理力が引き出されて
「私、案外やるなぁ」と
悔しさが喜びに変わっていくのは
気持ちが良かった。

ただ、当たり前のことではあるんですが
職場っていろんな人がいるんですよね。

どうしたって合わない“人”は存在する

たとえば、
主観が強くて、冷笑的で、誤魔化しと立ち回りで
仕事を切り抜けようとする人が居たとします。
その人と協力しあって仕事を進めないといけない場合、

どんな感じかを私の体感で表現すると
モチベーションのゼロサムゲームって感じなんです。

先方せんぽう戦法せんぽうは、
「自分が優越感を錯覚するために周りを扱き下ろす」というものなので
周りがうまくいっていると当人はつまらない。
人手不足だから働いてもらいたいが、
その人が動き出すためにはこちらがお膳立てをする必要がある。
結果、その人が動き出す頃にはこちらがへとへとです。

その上、職場をスムーズに回すために
知りうる限りの「事実に即した」情報を提供したいと
気を揉んでも、
同僚からの反応はどうも信用できない。

事実確認がいい加減で、その場しのぎを優先している
場面を何度も見ていたからです。
同じ現場で、同じ情報を共有しているのに、いつまで経っても
「教えてもらえないからわからない」
「わからないからしない」
逃げ回っているように見えて仕方ありませんでした。

結局、ふくらみ切った猜疑心さいぎしんによって
起こる問題の事実確認や、解決策を捻り出すと言うことを
私が自分一人でやろうとするようになり、

職務時間を超えて、生活時間も含んだ
ほとんどの人生を、
”本来真摯に対応していれば起こらなかったであろう問題”を
どう解決するか、どう未然に防ぐか
という悩み
に費やすようになって行きました。

ぜんっぜん楽しくねぇんです。

一方的に搾取されている気がして、
次第に鬱屈とした感情が蓄積して行きました。
心身ともに疲弊し、判断力も鈍ってきた頃
私は身の危険を感じました。

このままじゃ、食い潰される。

当時はもう、
これは心の持ちようでどうにかなるもんじゃねえ。
だって、もう体にも頭にもガタきてるもん。
ここ絶対おかしいよ、イカれてる。
あんなんがまかり通って
むしろ普通って言われてんのが証左しょうさだ。

といった具合で、
来ちゃいけない環境もあるんじゃないかと
それまで信じてきていたものに亀裂が入り始めていました。

身のうちにくすぶり続けていたともしび 


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流記屋
知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。