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2024年2月26日『潜行三千里』を調べる①

本日(2024年2月26日)、
午前7時ごろからしばらく庫裡のそうじをし、
正午から『潜行三千里』を手に取りはじめました。
本稿では、
辻さんに関して得た情報から感じたことを膨らませていきます。

『潜行三千里』は、
1949年の3月から潜伏先にしていた
真鶴半島にある同志の別荘で
一気に書き上げたものなんだそうです。

どんなところなんだろうと検索してみると、
神奈川県の真鶴町にあり小さな島らしいということがわかりました。

真鶴半島のさきっちょにあるらしい
「三ツ石(別名:笠島)」を見つけて

ここでも、三石不動尊と同じ名前だと
不思議な感覚になりました。

辻さんによるビルマ戦記『十五対一』の続編

『潜行三千里』は、
ビルマの戦地を小型飛行機で離脱する描写から始まります。

ビルマ戦とは

太平洋戦争における東南アジアでの戦いの一つで、
1941年の開戦直後から1945年の終戦直前までの間
繰り広げられた
(当時の)英領ビルマ(ミャンマー)、インドをめぐる戦闘を言います。

枢軸国対連合国の対立と、
ビルマ・インドの独立運動が関わっていたようです。

当時の辻さんは、1944年の7月10日から
ビルマ戦線に立つ第33軍に参謀として着任され
辣腕を振るわれたそうです。

ビルマ戦での辻さんの様子

第33軍の参謀たちは好意的に辻を迎え入れた。
陸大時代の教え子である黍野きびのひろしも、
このとき後方参謀をしていた。

黍野さんはのちに「潜行三千里」の名付け親となったという逸話をお持ちです。

田中博厚『ビルマ作戦回想録』より

(第33)軍司令官は、辻参謀を信頼していたし、
若い参謀連中は彼の人格手腕に敬服していたので
その意のままに動いた。
若い参謀は〔中略〕乱暴な連中ではあったが
皆元気で、正気に溢れ、労をいとわず、
率先して部下を指導していたので
司令部の空気は常に溌剌としていた

その空気をつくるのに辻は一役も二役もかっていた。

田中博厚『ビルマ作戦回想録』より

頭の良さに加えるに、何人も追随を許さぬ実行力は
驚嘆に値するものがある
彼の卓抜な戦術能力と飽く迄所信を完遂する果敢な実行力とが
第33軍の一大特色をつくった。

辻さんらしいとされる逸話もあります。

龍陵盆地のすぐ東側にある二山を攻めあぐねていた第二師団に代わり
辻が攻略を担うことになった。
辻は「第二師団がよう取らんのなら俺が取ってみせる」
と言い出し、結果として奪取してみせた。

田中博厚さんはこれを

第二師団の面目を踏みにじった事は否めない
個人の武勇誇示のために、全軍の融和を害するようなことは
総合的に見てプラスにならぬ事である

と評されたそうです。

自己アピールのためにやったというより
本人には手応えが掴めそうな道筋が見えていたから
いつまでも停滞している現場がまだるっこしくて手を出した
ように見えるのですが

こういうところが、
辻さんの(ひいては自分の)人の中に混じりにくい所以
なのかもしれないなと思いました。


続く

参考文献としておおいに頼っている本は、
前田啓介氏著『辻政信の真実』です。

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