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自利利他〜自分を知ってこそできる利他〜【二】

忘己利他にはもう懲りた


私の場合、
人のためになることで自分を認めようとした
発端の感情には、二つあると思っています。

一つは、
幼少期身近にあった
「こうはなりたくない」存在への反発心

もう一つは、
一方的に世話を受けている状態
の時に感じていた屈辱感

です。

「人間」の範囲内

私が小学校に上がる少し前に
家族で彼女を迎え入れ「敵」との同居が始まりました。
以降20年ほど、ずるずると彼女の圧制に耐える生活を送るようになります。

後半に関しては、忍耐というより
惰性と言った方が適確な心理状態だったと思いますが、

5歳の私にとっては
不遇感ルサンチマンを抱くには充分な体験を
日々重ねることになったと思います。

「敵」のせいで知らない人が家に入り浸っている。
リビングは占拠されて、ご飯も食べに行けない。
いつの間にか物がなくなっていて、
どうやら「敵」が盗んだらしい。
お風呂に入る時間も制限されて、
寝る時間は深夜をまわる。

酒の入った大人って、
色々と見苦しいところがあるじゃないですか。
そういう人間の厭なところを見る機会もちょくちょくあって、
よく知りもしない他人の、
見たくもない醜態を見せられている不愉快さもありました。


「敵」のせいで安心して生活できない。

彼女の一挙手一投足が気に入らない。
彼女の高笑いが耳障りでならない。

これだけのことをしておいて、
なぜ罪にも問われずのうのうと生きているのか。
笑っていられるのか。
腹立たしくて仕方がない。

私にとって、「敵」は「絶対悪」になりました。

血のつながった「敵」と、
自分が同じになるんじゃないかと恐れては、
「そうなる前にさっさと⚪︎にたい」と
将来を悲観したりもしました。

家族というコミュニティの中で、
運よく「彼女より、、大人らしい」という評価を得たので
なるべく「大人」らしい選択をしようとしました。

彼女の一挙手一投足に目くじらを立てては、
自分がどうかを省みて、
同じ人間の範囲内だと
苦々しく現状を呑み込み続けました。

家族から搾取するばかりでやりたい放題の「敵」と
家族から世話を受けるばかりで何の役にも立たない自分。

このまま
ただ生きているだけだと、
彼女と同列に並ぶと思った。

だから、理論武装を重ねて、
自分が納得できる「大したやつ」になろうと決めた

最澄さんを自分と重ね合わせるのも
烏滸おこがましい気がしますが、

最澄さんの記した『願文』に、
19歳の彼の厭世的な世界観自己否定
そこから出発した自己変革の決意、
そして、他者のためになることで自分を認めようとするスタンス
を見出した時、

自分の経験が重なって、
彼の心理に自分を投影したんです。

空海さんからの絶縁状

最澄さんと空海さんの接点は、
最澄さんが空海さんに弟子入りしたことから始まります。

2人はもともと
同時期に遣唐使節に随う留学生として海を渡ったと言われています。
当時、最澄さんは仏教界の若き牽引者けんいんしゃで、
国費で通訳を連れ、1年で還って来られる還学生げんがくしょうという立場でした。
対して空海さんは私費で密教を究めようとする学問僧で、
20年の滞在期間が義務づけられていた。

最澄さんは東シナ海に面する台州で「天台」を習得した後、
帰国の1か月前に順暁という僧侶から密教を教わっていました。

一方空海さんは、
師匠である恵果けいか阿闍梨あじゃりに見込まれて
早々に密教の奥義を伝授され、2年で帰国しました。

これには、対面時すでに空海さんが過酷な修行を十分積んでいたことを恵果阿闍梨が見抜いたことや、阿闍梨自身が入寂間近だったことなどさまざまな要因が重なったようです。

空海さんは、「自分が学んだものを生かすことの方が日本のためになる」と帰国するんですが、留学期間20年を短縮して2年で帰国することは闕期罪けつございという重罪にあたったらしく、
京から締め出されてしばらくは九州の太宰府に留まり、
御請来目録ごしょうらいもくろく』を作成して
唐から持ち帰った密教経典、密教法具の一覧と、
予定より早く帰国した理由を綴り、朝廷に提出しました。

その時、最澄さんが朝廷でその『御請来目録』を見て、
自分が必要としている経典が列記されていることに気づくんです。

空海さんが上京を許されたのには、最澄さんの支援があったともいわれています。

空海さんが上京した後、
最澄さんは「空海阿闍梨から真言の秘法を学びたい」と申し出ました。
そして、弟子の僧侶百数十人とともに空海さんから灌頂かんじょうを受け、
正式に弟子入りました。

そんな最澄さんが
空海さんと決別することになったのは、
理趣経りしゅきょうという経典がきっかけのようです。

『理趣経』の解釈書『理趣釈経りしゅしゃっきょう』の貸出を求める
便りに対する、空海の返信が
「叡山ノ澄法師理趣釈経ヲ求ムルニ答スル書」『性霊集』に綴られている。

「『理趣釈経』を借りたいとの手紙をいただきましたが、
 理趣とは何か、あなたはご存じないようですね」

「理趣には本当の意味は3つあります。
それは、耳で聞くこと。つまり言葉によるものです。
そして目で見ること。それは物質であり、身体も物質です。
そして、それは自分自身の心です」

「つまり、あなたにはすでに理趣が具わっているのに、
別のところに理趣を求めている
ようです」

「あなたは真理を紙の上の文章でのみ、
真理を求めて追いかける人のようですが、
真理は紙の上にあるのではなく、あなた自身の中に広がっているのです」

「字面だけを追いかけて密教を学ぼうとしているのなら、
そのこと自体、根本的に間違っているのです」

「もし、あなたが、密教を知りたいのなら、
まず、行を修めなさい。そうすれば密教を教えて差し上げます」

密教の伝承は、師資相承が伝統であり、面受により、法は伝授される。
だが、最澄は経典の借覧と書写を繰り返すことで
密教を習得できると考えていた。

 さらに空海の返信の続きには、最澄へのいらだちが感じられる。

「私は、いまだ知りませんが、
 あなたは仏の化身か、それともただの凡夫でしょうか」

「密教の奥義を文にすることは良しとはされていません。
 心から心に伝えることを最重要視しています」

文は、これは粕であり、瓦礫です。
 糟粕や瓦礫を真に受ければ、大切な真実が失われます


真を捨て、偽を拾うは、愚か者のすることです
 愚か者のすることを、してはなりません。もう、経典は借りませぬよう」

最澄は、この返信に反論することはなく、
弘仁7年(816年)2人は訣別する。

池口恵観「最澄と空海、その違いを知る」

これは私の勝手な憶測なのですが、
厭世的な世界観と自己への絶望が出発点だった最澄さんにとって、
仏の境地は「渇望する対象」で、
ずっと「追い求めるもの」だったんじゃないかと思うんです。
だから、「会得したと言えるようになる」ために、追い続けている。

外にあるものを血肉にするために、
本を読み、実践し、反省し、
創意工夫のために頭を使ってみる。

大事にしたい本の一節をひたすら書写してみたり、
分解して理解しようとしたり

ということは、私自身も
私の学びの場でやっていました。

こういう時って、
頭で理解しようとしちゃってたなと
振り返って思います。

「わかっている」ことで安心しようとする心理が働くんですかね?

だから、わかろうとする。
言葉にできるようにしようとする。
でも、思考と感覚は両立できないんです。

→目を凝らさないと己の歪みは見えてこない

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流記屋
知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。