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奈良から近江の滋賀郡へ(本格的公共事業のはじまり)

先日、東京国立博物館でみた「無量義経」のことを、最澄が解説している本を図書館の検索サイトで見つけました。


『最澄全集』という本で、最澄の没後1200年にあたる2021年に発刊されています。

『現代語訳 最澄全集 第一巻』国書刊行会
『現代語訳 最澄全集 第一巻』国書刊行会


最澄の書く無量義経の解説(註釈)は、まだ冒頭しか読んでいませんが、
書きっぷりが、現代の「だれでもわかる○○」というマニュアル本のような感覚に近い。(初心者に向けて、簡潔に要点を押さえた書き方で、一文の長さが長くても40文字ぐらい)

『現代語訳 最澄全集 第一巻』目次の一部


最初に仏教を学ぶなら比叡山!

と思う理由がなんとなくわかる気がする。
(空海はいきなり「本題」という感じがする。*個人的な感想)


それで最近、別なところからの話で「近江」のことが気になっているので、
比叡山のまわりのことを調べていましたら、あの辺りへ行きたくなって、赤い紙に気になる地を書いてみました。
(ここを周る旅がしたい。。)

琵琶湖と山科と伏見と宇治のあたり
2023.1.20 のメモ (森山智子)


日本史の教科書では「大津」が本格的に登場するのは、天智天皇の時。
そういえば、比叡山も三井寺も石山寺もみんな、大津に都をつくった天智天皇が発端となっています。

最澄は天智天皇の子の大友皇子からの流れですし、三井寺(園城寺)は壬申の乱で敗れた大友皇子の霊を慰めるために建立された寺。

近江国の滋賀郡の和邇氏。そして園城寺(三井寺)。大友皇子と大友黒主。
2020.10.8 記載(森山智子)


こうした天智天皇からの縁が、奈良から都を山城国へ遷した桓武天皇と最澄の仲の良さにも繋がっていたのかもしれない。

最澄は滋賀県大津市の坂本の出身で、東大寺で受戒してすぐに比叡山に篭ったのは18歳の頃。平安京遷都の後に建立された延暦寺ができる前に、すでに比叡山には寂静を求めて庵を結ぶ人がちらほらいたようで、「どうして比叡山なんだろう」と思ったら、比叡の山には大山咋神(おおやまくいのかみ)がいるんですね。


そういえば飛鳥寺も法隆寺も天王寺も、みんな平地に建てられています。(ちなみに「なら」という言葉は「平地」という意味)
奈良時代のころまでは、お寺は山の中にはないのです。
古代には山には神がいて「神奈備」として、そこは人の立ち入りを許さない禁足の地でした。その神聖な山の中に、異神である仏の伽藍が本格的に建てられたのは、天智天皇の「崇福寺」が最初だったようです。
それは、大津京がつくられた時で、北の鎮護のために比叡山の南麓の尾根の上に建てられました。


なので、奈良時代は「山寺」といえば崇福寺のことで、最澄が生まれた頃には、比叡山はすでに「寺」がある山でした。

例えば、万葉集の巻第二の115の歌の詞書には

穂積皇子に勅して近江の志賀の山寺に遣はしし時に、但馬皇女の作りませる御歌一首

『万葉集 全訳注原文付(一)』中西進 より

*穂積皇子と但馬皇女は天武天皇の異母兄妹

という記述もあります。

山に寺を作る最初の最初は、どんなのだったのでしょう。

天智天皇に先立っては、信貴山の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)が、「寅年寅の日寅の刻に聖徳太子がこの山で毘沙門天王を感得し、物部守屋との戦いに勝った。」ことをきっかけに創建されています。
この時には本当に戦をしていて、敗れた物部氏は古来の神々を祀る氏族でしたので、神と仏の代理戦争みたいな様相でしたが、この信貴山の山中に本格的な伽藍が建立されたのは、平安時代の延喜の頃でした。

天智天皇は「山の神と揉めずに」寺を建てたようですが、そんなことができたのは、もしかしたら比叡の山の麓に「大山咋神」がいるおかげだったのかもしれない。(大山咋神の別名は山末之大主神(やますゑのおほぬしのかみ))

大山咋神は比叡山の麓にある日吉大社の祭神で、『古事記』には「鳴鏑を用つ神」と紹介されています。

次に大山咋神、亦(また)の名は山末之大主神。この神は近つ淡海國の日枝の山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ。

『古事記』岩波文庫
「大年神の神裔」より

鳴鏑(なりかぶら)は戦いが始まる合図に使われる矢のこと。

山の木を伐採して、その木を使って、山の地面に杭(柱)を立てて、人の営みを行う場所にする。大山咋神の用いる鳴鏑は、もともといる山の神に戦いを挑む合図だったのでしょう。大山咋神に護られて山に入り込む。そんなことを本格的にしだしたのが、天智天皇でした。

余談ですが、東京赤坂山王にある日枝神社も、平安時代の末に武蔵江戸郷を領有した江戸氏(桓武平氏)が山王宮を祀ったのがはじまりで、室町時代後期には太田道灌(清和源氏)の江戸城築城、そして江戸幕府を開いた徳川家の崇敬を集めました。こうして大山咋神は新規開拓の祖神から守護鎮護の神へと変身していきました。


そしてもう一つ、琵琶湖の南端の瀬田川が流れ出すところに石山寺があります。

珍しい大きな石があるこの寺も天智天皇がかかわっています。
石山寺は石の上に建っていますが、飛鳥時代には石切り場となっていて、採れた石は、天智天皇が中大兄皇子と呼ばれていた頃に建立した、飛鳥の川原寺の本堂の基礎石として使われました。

その後、奈良時代になって、比叡山の北、比良山の麓の湖畔に鎮座する「白鬚神社」の白鬚明神(猿田彦)と、東大寺建立のプロジェクトを率いた良弁(りょうべん、ろうべん)との出会いから、石山寺の縁起が始まります。

『石山寺縁起』巻一の冒頭
(『石山寺縁起』日本の絵巻16 中央公論社)

石山寺の場所で出会った、白鬚明神と良弁。
東大寺建立の資材調達について白鬚明神は耳寄りな話を良弁に伝えます。
このあと、陸奥国から金が発見されて大仏鋳造のための金を無事に賄うことができました。
『石山寺縁起』日本の絵巻16 中央公論社


琵琶湖は周囲の山々から川が流れ込みますが、琵琶湖から流れ出る川はたった一つ。瀬田川だけなのです。

琵琶湖のまわりと瀬田川
(白鬚神社と佐久奈度神社)
2023.1.21 記載(森山智子)



これはもう石山寺へ行かなくちゃ!(紫式部も和泉式部も何度も行ってるし)そして、瀬田川と宇治川沿いに宇治まで行ってみたい。

地図で瀬田川から宇治川の川筋を辿っていたら、途中で瀬田川が大きく西へ折り曲がる場所には、瀬織津姫を祀る「佐久奈度神社(さくなど)」神社があることも発見。

宇治は菟道とも書きますが、「菟」はうさぎ!

石山寺から宇治まで23km。そして公共の交通手段が途中までしかないんです。うーん、1200年前の人と同じように歩きましょうか。


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