2歳年上、北条義時が58歳のとき
NHKの大河ドラマ『鎌倉殿と13人』が最終回を迎えた後、「吾妻鏡」の文章を見てみたいと思って、和文漢文体の『吾妻鏡(吉川本)』(全三巻)と、訓読された岩波文庫の『吾妻鏡』(全五巻)を借りました。
『吾妻鏡』全体の構造や書きっぷりを掴むには「吉川本」がとても良いです。
でも、読み物として読むにはやはり、訓読されたものがいいので、岩波文庫を読み出しています。
『吾妻鏡』は800年前の日本での出来事を書いていますので、当然のことながら全ての日付が西暦での表記ではありません。
わたしたちは、歴史の教科書や授業で年号を西暦で習い覚えましたので、せっかくのその記憶とのリンクができないのです。
例えば建久3年7月に源頼朝は征夷大将軍に任命されましたが、それが「イイクニつくろう鎌倉幕府」の1192年はパッと結びつかなくて、なんとなくギクシャク。
その上、月の満ち欠けを基本にした日本古来の暦(明治五年まで使用)と、太陽の運行を基本にした西洋の暦(ユリウス暦・グレゴリウス暦)では、日付がずれるので、「元号→西暦」が一対一にならないのです。
吾妻鏡は治承4年から記録がはじまりますが、岩波文庫の『吾妻鏡』の訳注にも西暦の記載がありませんので、治承4年は1192年からどのくらい前?というのがすぐにはわかりません。
そこで、自分の中に時間の空間を思い描くために「治承」という元号から、承久の乱が起きた「承久」あたりまでをWikiでひらってみました。
治承4年は1180年、1192年に先立つこと12年だったことがわかりました。
『吾妻鏡』の冒頭は治承4年4月9日の出来事から始まります。
旧暦の4月は新暦の3月ごろですので、そろそろ桜が咲き始める季節。
その日の天気はわかりませんが、旧暦は日付から月の満ち欠けがわかりますので、九日月ならだいぶんふっくらとしてきた月があったかもしれません。
清盛率いる平家を討とうと意を決した源頼政は、夜になって以仁王(後白河天皇の第三皇子)のいる三条高倉の邸宅へ行き、その心の内を伝えると、以仁王は「令旨」を下さいました。
この夜の5ヶ月前、治承3年の11月14日の豊明節会の日に、平清盛はクーデターを起こします。福原から上洛して京を制圧し後白河法皇を幽閉、後白河院政は停止します。そして年が明けた治承4年(1180年)2月22日には、高倉天皇は言仁親王(母:平徳子)に譲位し、安徳天皇が即位します。
ということが起きていた頃から『吾妻鏡』は始まります。
ところで、『鎌倉殿の13人』の北条義時は、その時何歳だったのだろうと気になって調べましたら、
1163年生まれということは、治承4年4月9日には17歳。
今なら高校2年の3学期の頃。
そっか。。私とだいたいちょうど800歳違いなんだ。
と思ったら、急にリアルになって来ました。
そこで、思い切って1180年の表記を2桁の「'80年」にしたら、もっとリアル!そこで、西暦の表記を変えて「鎌倉殿」に描かれてた事件を書き出すと、こんな感じ。(年号は西暦ですが日付は旧暦のままです。)
1100年代に1900年代を重ねて、1965年生まれの私を義時(1163年生まれ)の2歳下として想像してみます。
そうしたら、頼朝の挙兵は高一の夏で、壇ノ浦は20歳の春。
80年代前半の10代の頃はアイドル煌めく平家の世で、学生の頃に源平の騒乱があって、黄金の奥州藤原氏の滅亡はバブル崩壊と重なります。
その後90年代に鎌倉幕府の形ができはじめ、2000年代には武家社会での権力が執権となった北条氏へと集中してゆき、ついに21年には承久の乱が起こり官軍が破れます。そして今(23年)は鎌倉幕府による戦後処理の最中。。。
それで、もっとリアルにしたくなって人物の生年を西暦二桁で書いて見ました。
藤原定家(1162年生まれ)、北条義時(1163年生まれ)、畠山重忠(1164年生まれ)、三浦義村(1168年生まれ)、みんなだいたい(私と)同じ世代なんですね。
同じ武士である平家と戦った20代、誰も経験したことのない武士の世を必死に模索した30代、40代、そして50代後半になってから遂に朝廷と戦うことに。
『承久記絵巻』(全6巻)には、御家人たちを前に語る58歳の義時の姿が描かれています。
承久の乱から800年となった1221年には、三条高倉にある京都文化博物館で、『承久記絵巻』を展示する特別展があったそうです。
(特別展の案内パンフレット)
800年前の戦いの記憶に迫る! - 京都文化博物館
官軍(公家)に勝利した鎌倉幕府が、承久の乱後に決めた枠組みは、徳川時代を経て幕末まで引き継がれます。
そしてこの「幕府(武家)と朝廷(公家)が同時に存在する」というダブルスタンダードは、日本の文化を途切れなく多様性を保持する形で豊穣なものにして行きました。
『鎌倉殿の13人』の最終回で、先帝のことがでてきますが、承久の乱のあと、皇位を廃された「仲恭天皇」は当時4歳だったとは。。。
最終回で、政子に「もうこれ以上罪をつくらないで。。」と義時に語りかけて、あの行動をとらせた三谷幸喜(1961年生まれ)の脚本は本当に凄い。
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そして、今年の大河は『どうする家康』
徳川家康は天文11年(1543年)生まれなので、ちょっと重ねにくい。そこで1565年生まれの人は周辺にいないかと探したら、彼がいました。
森蘭丸は織田信長の近習。「本能寺の変」の時は17か18歳。
彼は主君(信長49歳)とともに討ち死にしますが、もしも生きていたら関ヶ原の戦いのときは35歳か。。。
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