「誰かにとってのヒーローは」

ヒーロー。意味は、敬慕の的となる人物。つまり、「英雄」である。

 ※

 中野俊介なかのしゅんすけは、天博てんはく商事の営業部に勤めている。俊介は営業部の中でも成績優秀であり、特に俊介が自ら商談に出向いた際には、ほとんどのケースで契約を成立させてしまう。いわば営業部の若きエースである。

 今日も商談を成立させた俊介の元へ、その噂をいち早く聞きつけた後輩の原田が話しかけに来る。

「俊介さん! 今日も新製品のプレゼンを成功させてきたらしいですね!」

「あぁ。特に今回の新製品は、今後間違いなくウチの中核を担う製品となる。だから契約を勝ち取れて良かったよ」

「さすが中野さんっす! 天博商事のヒーローっすね! でも、いくらウチの新製品が重要だからとはいえ、今回の商談はわざわざ中野さんが自ら出向かないといけないものだったんすか? ライバル会社も、岡福(おかふく)商事の一社のみ。そんなに強い会社じゃないですし」

「俺が出向いた理由は、別に今回の新製品が会社にとって重要だったからだけじゃないよ。もう一つ理由があるんだ。むしろ、そっちのほうが重要かもしれない」

「もう一つ理由?」

 たしかに、その後輩の言うとおり、今回の商談は特別難しいものではなかった。しかし、俊介には絶対に負けられない理由があった。

 今回、俊介の所属する天博商事の商談のライバルとなった岡福おかふく商事において製品をプレゼンしてきたのが、俊介の高校時代からの知り合いだったのである。

 ※

「ごめん。今回もダメだったよ」

 落胆した気持ちのまま帰宅した上尾輝樹あげおてるきは、帰宅が遅くなった輝樹のために夕ご飯を温め直している妻の琴音ことねに言った。

 商談を成立させることができなかったのは、もう何度目だろうか。商談でプレゼンする機会を与えて貰うたびに、入念な準備を心掛けた。今回は琴音にもプレゼンをする旨を伝え、プレゼンの練習に付き合ってもらった。それにもかかわらず、今回もダメだったのだ。

「そんなに落ち込まなくても大丈夫よ。準備してきたことは、会社のみんなも知ってるし、今回の経験も全部無駄になるわけじゃないから、また頑張ればいいじゃない!」

 プレゼンの準備を入念に行っては、上手く行かずに落ち込んで帰宅する輝樹と、そんな夫を家へ迎え入れる琴音。これももう何度目だろうか。その度に琴音は輝樹を責めるどころか、励ましの言葉をかけてくれる。本当は琴音も辛いはずなのに。給料もなかなか上がらず、苦しい思いをしているはずなのに。

「……琴音は俺と結婚して後悔してないかい? 俺じゃなくて、その……、俊介だったら。もっと幸せになってたかもしれないんだよ?」

「何言ってるのよ。私は輝樹の頑張り屋な性格が好きで結婚したの。輝樹は何事にもひたむきで、絶対に手を抜いたりしない。私はその人間性に惚れたの。それは、隼人にも十分伝わっているはずよ」

 ガチャ、とドアの開く音がリビングに響いた。

「あら、隼人はやと。起こしちゃったかしら? ごめんね」

 ※

 俊介と輝樹は高校時代に知り合い、大学も同じ所へ進んだ。

 何をやっても上手くいく俊介に対し、輝樹は何事も平凡だった。就職先も対照的で、俊介が日本でも有数の商社へ就職したのに対し、輝樹は無名の小さな商社へと就職した。

 そんな二人が、今回たまたま共通の取引先へ製品をプレゼンすることになった。その結果、商談を成立させたのは俊介だった。

「よくやったぞ中野くん! これで我が社もしばらく安泰だ。社長にも直に報告が行くだろう。少なくとも、昇格は間違いなしだ。君は我が社のヒーローだな!」

「ありがとうございます。我が社に貢献が出来て嬉しいです」

「商談を成立させた臨時の報酬も出るから、それは私が申請しておこう。お疲れさん!」

 部長の山下との話が終わった俊介は、自分のデスクには戻らず、オフィスが入っているビルの屋上へと向かった。

「ヒーローか……。まぁ、たしかに少なくともこの会社にとってはそうかもな。あぁ、そういえば、原田も言ってたっけ」

 自動販売機で買ったコーヒーを片手に、街並みを見下ろしながらそれを一服し、俊介はつぶやいた。

「輝樹、相変わらずだったな。平凡なあいつらしく、プレゼンの内容も平凡だった。あんなのに俺が負けるわけがない。そう、負けるはずがないんだよ。それだけに、が余計に悔しく感じるよ。なぁ、輝樹。琴音は元気か?」

 俊介は、輝樹の妻である琴音のことが高校生の頃から好きだった。何事もそつなくこなす俊介は、恋愛においても苦労することはなかった。

 琴音を除いては。

 何度も何度もデートに誘っては、好きだということを伝え続けてきた。しかし、結局琴音は輝樹と付き合い、そして結婚した。俊介にとって、輝樹に負けたたった一度の出来事だった。そのため、俊介は特に今回のプレゼンで負けるわけにはいかなかったのだ。

 俊介は一度、輝樹が息子と公園で遊んでいるのを見かけたことがある。その時の息子はとても楽しそうで、まさに幸せな親子を見ているようだった。

「あの息子にとって、輝樹という父親はヒーローなんだろうな。同じヒーローなのに、俺とこうも違って感じるのは不思議なもんだな……」

 口に含んだ苦いコーヒーが、今は余計に苦く感じた。

 ※

「隼人、ごめん。起こしちゃったよな。寝れるか?」

「パパ……」

 隼人が何か言ったようだったが、輝樹はよく聞き取ることが出来なかった。

「ん? どうしたんだい?」

「……パパ。いつも遅くまでお疲れ様」

 輝樹は自分のしている仕事を、隼人に教えるようにしていた。決して胸を張りながら自慢できるような仕事ではなかったが、父親がどういう仕事をしているのかというのを子供に教えるのは、親としての義務であると輝樹は考えていた。

 そして、今回のプレゼンのことも、隼人には話していた。今度こそ成功するように頑張るよ、と。

「隼人……。ありがとう。パパな、今日もお仕事上手くいかなかったんだ。隼人も応援してくれてたのに、ごめんな」

「ううん、パパは頑張ってたよ! ママから聞いたんだ。パパはいつも遅くまでお仕事して、帰ってきてからも頑張ってるんだよって。明日はお休みでしょ? だからパパもゆっくり休んでね」

 輝樹は不意に込み上げるものを感じた。しかし、今は抑えておきたい。また家族のために頑張らなくては。今は泣くにはまだ早い。

「隼人、パパに渡したいものがあるんだよね?」

 不意に、琴音が発言した。

「渡したいもの?」

「うん! だからパパが帰ってくるまで起きていたかったんだけど、寝ちゃってて……。はい、これ。今日幼稚園で絵を描いたんだ!」

 隼人は一旦リビングを出ると、数十秒後、何かを手に持って再び輝樹の元へ戻ってきた。そして2枚の画用紙らしきものを、裏返しの状態で輝樹へ手渡した。

「そうなんだ! パパ、見てもいいかい?」

「うん!」

 輝樹が画用紙をひっくり返して表にすると、1枚目の絵には、クレヨンで不器用に描かれた3人の人らしきものが、手を繋いで輝樹に笑顔を向けていた。

 そしてもう1枚の絵には1人しか描かれていなかったが、その人物は輝樹が好んで着る青い服らしきものを着ていたことから、この絵はおそらく自分を描いたのだろうと、輝樹は察した。

 輝樹がふと絵の下の方を見ると、文字も一緒に書かれていた。

「パパは僕のヒーロー」

 輝樹がその文字を見た瞬間、さっきまで抑えていたものが目から溢れ出てしまう。その顔を隼人に見られまいと、輝来は隼人に駆け寄り、そして抱きしめた。琴音も同じく涙を堪えながら、しかし微笑ましくそれを見ていた。

「輝樹は明日幼稚園休みだろ?」

「うん。明日はお休みだよ」

「よし、じゃあみんなで出掛けよう! 最近は忙しくてあんまり遊べなかったからな!」

「え? 本当に? やったぁ!」

「隼人、やったね! 隼人はパパとやりたいことがあるんだよね?」

「僕ね、パパとキャッチボールやりたい!ママといっぱい練習したんだよ!」

「それは楽しみだな! じゃあ大きい公園に行って、みんなでやろう!」

「やったー! やっぱりパパは僕のヒーローだ!」

 ※

 ヒーローとは、一般的に崇められる存在、敬慕の対象となる存在である。

 勝者の陰には敗者が存在するというもの。誰かにとってのヒーローとなった存在の影には、誰かにとってのヒーローになれなかった存在がある。

 しかし、ヒーロー対決に敗北しヒーローになることが出来ず、惨めな敗者の存在となってしまった者でも、また他の誰かにとっては、かけがえのないヒーローなのである。



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