『本の世界は今日も晴天なり』

 本の世界に没入すること。それには、仕事や学校、家事や子育てなど、現実で起こる全ての憂鬱なことから逃げることができ、そして忘れさせてくれる力がある。

 しかし、読書が終わって本の世界から出てしまい、そして職場や学校などそれぞれの戻るべき日常に戻れば、またいつもの憂鬱な生活が始まる。

 本の世界に没入することで得られる力は、所詮一時的なものに過ぎないのか__。

 ※

「おーい、みんな!和哉がまた変なもん読んでんぜ!」

「こいついつも本読んでんな!陰気臭えー!」

「スマホとか持ってないのかしら? 今どき遅れてるわよねー」

 福岡市内の中学に通う宮田和哉みやたかずやは、今年の春から新一年生となった。誰もが新しい学校生活に期待を膨らませていた中、小さい頃から内気な正確である和哉は、小学生の頃と変わらず、中学に入ってもなかなか友達が出来なかった。そのため、基本的には誰とも話さず、休み時間は専ら本を読んでいる。やがて、その姿を見たクラスメートから気味悪がられるのが日常の一部となっていた。

 和哉は読書好きの両親の元で育った一人っ子である。なかなか子供に恵まれない中、ようやく誕生してきたのが和哉だったため、大切に大切に育てられてきた。

 他の同じくらいの月齢の子供が言葉を話すようになっても、和哉は話せるようになるまで時間がかかった。それでも、両親は焦らず和哉の成長スピードに合わせるような育児を心掛けた。

 両親は和哉がまだ乳児だった頃から、積極的に絵本などを読み聞かせていた。その結果、和哉はなかなか言葉が話せるようにならなかった分、見て聴いて、そして自分で考えることを早い段階で身に着けることができた。

 読書好きの両親の影響により、和哉も多分に漏れず読書が好きになった。特に、父親がSFモノを好んで読んでいた影響か、和哉もSF、特に科学や空想といったジャンルを好んで読むようになった。

 それは、中学生となった今でも変わらず、この休み時間に読んでいる本のジャンルが、まさに空想を元にしたSFモノなのであった。

「なぁ、和哉よー? 本ばっかり読んでないで、たまには俺たちと遊ぼうぜー? スマホ持ってないのかよ?」

 そう話しかけるのは、クラスでも特に目立っている岡山湊おかやまみなとである。和哉は毎日のように湊から遊びの誘いを受ける。周囲からは親しげに話しかけられているように見えるが、そこには多いにからかいが混じっていることに、和哉は気付いていた。

「スマホは買ってもらえないんだ。だから持ってない。あと、今日は帰宅したら家事をやらないといけないから、遊びにも行けない」

「けっ、つまんねぇな。せっかく誘ってやってんのによ!」

 湊は短く言葉を発した後、面白くなさそうな顔で和哉のそばを離れた。

「お前、せっかく湊が遊びに誘ってんのにその態度、気に入らねぇなぁ」

 湊とのやり取りを見ていた、クラスのリーダー格ともいえる田代俊樹たしろとしきがそう言った。

「そんなに熱中して読むほど面白いの読んでんのかよ? 何読んでんだ? ちょっと見せてみろよ!」

 俊樹はそう言って、和哉が読んでいた本を取り上げようとした。

「べ、別に何読んでてもいいだろ!やめろよ!」

 俊樹の取り上げようとする力と、和哉の本を離すまいとする力が拮抗し、そしてそれに耐えられなくなった本がビリビリと音を立て、ほぼ真っ二つに破れてしまった。それに驚いた両者が本から手を離し、壊れた本が床に散らばった。

 一部始終を見ていた者たちは本を拾ってくれるどころか、クスクスと笑っている者もいた。和哉は散らばった本のかけらを慌てて拾い集める。

 和哉は一瞬にして頭の中が真っ白になる感覚に陥り、そして何も考えられなくなった。怒りか悲しみか、よく分からない感覚。

 和哉にとってこの本は、父親から譲ってもらった大切な本であったのだ。

 和哉はあまりのショックからか、それから家に着くまでのことはあまり覚えていない。

 ※

 和哉は父親から何度も言われた言葉がある。

「本の世界は無限大だ。この先、現実で嫌なことがあったら、本の世界に入り込め。必ずお前を救ってくれる」

 和哉はこの言葉を常に信じて生きてきた。実際に嫌なことがあっても、読書で本の世界に没入することでなんとか乗り越えてきた。

 それは和哉が小学生になる直前に、その大好きな父親が亡くなってしまっても、決して変わることはなかった。

 それが今日で一瞬にして打ち壊された。父親から譲り受けた大切な本も、そして父親からの言葉さえも。

 夕飯の時、いつもよりも和哉の雰囲気が暗いことを察したのか、母親が話しかけてくる。

「和哉、今日は学校、どうだった?」

 和哉のは母は、夕飯時に和哉へ今日一日の出来事を聞いてくる。この質問は毎日の恒例であった。

 しかし、特に今日に限っては、何かあったの? と詳しく聞いてこなかった。母親なりの気遣いなのかもしれない、と和哉は思った。

「今日も普通だったよ。変わらない一日だった」

 これもいつもの返答である。

「それならいいんだけど……」

 ふと母親が何か言いたげな、そんな風に見えた和哉は、それが気になって逆に母親に問いかけた。

「何か気になることがあるの?」

「ん? いや、和哉のことではないんだけどね。さっき。湊くんのお母さんから電話があったの。また喧嘩しちゃったみたいで、湊くんがまた家を飛び出しちゃったって。いつものようにしばらくしたら帰ってくると思うけど、心配よね。湊くんたち、中学に上がってから喧嘩が絶えなくなったわよね……」

 和哉と湊は幼なじみであり、小学4年生まではとても仲が良かった。湊も読書が好きであり、当時はどちらがより本を多く読めるか競い合っていた程であった。

 湊は小学5年生に上がる前に隣町へ引っ越してしまい、それに伴って転校してしまった。決して会えない距離ではなかったが、それでも小学生にとっては気軽に会いに行ける距離ではなく、その上お互いの両親が忙しいのもあって、結局中学で再会するまで2年近く会っていなかった。

 中学で久しぶりに再会した湊は、雰囲気がガラリと変わっていた。母親の話によると、湊の両親は離婚し、その後再婚して新しい父親となった。その父親は、今後は情報社会になるからと、時代遅れだといって湊に本を全く与えず、代わりにスマホを買い与えた。湊は本を読む楽しみを奪われてしまい、ガラの悪い友達も増えたという。

 湊は今家を飛び出している。行くとしたら、多分あそこだろう。和哉は当たりがついていた。昔よく遊んだ公園。和哉はそこで、湊とよく本の感想について語り合っていた。

「何かあったらあそこへ」。これが合言葉だった。

「母さん、ちょっと俺行ってくるよ」

「行くって、どこへ? もう夜も遅いし、危ないわよ!」

「湊に会いに行く。たぶん、あの公園にいると思う。目的を果たしたらすぐに帰ってくるよ。だから、行かせて!」

「……分かったわ。でも、一応防犯ブザーは持っていきなさい。大きい道を通って行くのよ。気を付けてね」

 和哉は防犯ブザーのついたスクールバッグごと肩に担いで家を飛び出した。そのスクールバッグには、絶対に湊へ渡したいものを入れて。

 走って20分くらいの所にある公園に着いた。運動の習慣の無い和哉は、肩を上下させながらはあはあと息をする。息を整えて公園を見渡すと、一人の人物がジャングルジムの一番上に座っていた。恐る恐る近づいて目を凝らすと、その人物は紛れもなく湊であった。

「湊!」

「……誰?」

「和哉だよ」

「和哉? 和哉が何の用だよ?」

「喧嘩して家を飛び出したって聞いてさ」

「けっ。なんでお前なんかに心配されないといけないんだよ。帰れよ」

「湊に渡したいものがあって来たんだ。これを渡したら、すぐに帰るよ」

 和哉はそう言って、湊が座っているジャングルジムの一番上まで登り、隣に腰掛けた。

「なんで隣に座んだよ気持ち悪いな。受け取ってやっからさっさと帰れ」

「昔の約束覚えてるか?」

「あ? なんだよ。約束?」

「湊が俺が書いた本を読みたいって言ってたから、いつか書いたら読ませてやるってやつ」

「……覚えてねーよ。そんな約束した覚えはねーな」

「覚えてないか、そうだよな。もう2年以上前だもんな。じゃあ俺が一方的に渡すから、読んでくれ」

「そんなことされても迷惑なんだよ!本とか読書とか、時代遅れなんだよ」

「……たしかに、そうかもしれない。学校でも疎まれてるし」

「……おいおい、読書しか取り柄の無いお前がそんなこと言うなんて珍しいな?」

「今日さ、俊樹に本を壊されちゃったんだ。父親から譲り受けた大切な本」

「俊樹が? あぁ、だからあいつ、今日はやけに得意げになってたんだな。なんかやったんだとは思ってたが、お前の本を壊しちまったのか」

「そこで思ったんだ。嫌なことがあっても本の世界に入り込めば大丈夫って言うけど、実際はそんなことないんじゃないかって」

「そうさ。だから俺は本を読むのをやめたんだ。今の時代はスマホ1台でなんとかなるからな。本なんて時代遅れだ」

「たしかに湊の言うとおりかもしれない。今日の出来事で俺も読書をやめる良いきっかけになるかもしれないし。だったらせめて、最後に湊に俺が書いた物語を読んでほしくてさ。俺が好きなSFをテーマにした物語。面白くはないかもしれないけど、ちゃんと約束だけは果たしたい」

「面倒臭えな。まぁ、読むか読まないかは俺の自由だから、一応受け取っといてやるよ。だからさっさと帰りやがれ」

「分かった。一人の時間を邪魔してごめん。湊も気を付けて帰れよ」

 和哉はそう言うとジャングルジムを降りる。その途中、湊もスクールバッグを持ってきているのに気付いた。

 やっぱり。

 和哉は気付いていた。あの中にはおそらく本が入っている。自宅には父親がいるため、ゆっくりと読書ができない。だから湊は常にスクールバッグに本を入れて、少しずつ読んでいる。この間も、通学中の電車の中で本を読んでいるのを和哉は見かけていた。

 そして、昔よく遊んでいた頃は、このジャングルジムの一番上に登って本の感想を語り合っていた。だから今回も湊はここにいた。

 湊は読書に対する愛を忘れてなんかいない。和哉はそう確信していた。

 ※

「うわ!どうしたんだよ、目の下のクマ凄いぜ!どうせエロ動画でも漁ってたんだろ!」

「湊くん、大丈夫? 眠れてないの?」

 翌日、目の下にクマを作って登校してきた湊を、多くのクラスメートが心配する。しかし、湊はそれには目もくれず、真っ直ぐ目的の人物へと向かって歩いていた。和哉である。

「お、おはよう。目の下、凄いクマだな。寝てないのか?」

「うるせー。目の下のクマのことはもう言うな。だいたい、眠れなかったのはお前のせいだからな」

「……へ?」

「お前が昨夜渡してきたこの話、……まぁまぁ面白かったよ。よくもまぁあんな発想思いつくよな。無駄にSFばっか好んで読んでんじゃねえんだな」

「本当に? 具体的にどこが良かったか教えてよ!」

「バカお前。ここじゃ恥ずかしいだろうが!それに、本の感想というのは一言二言じゃ語れないだろ? この話はまた別の場所。「何かあったらあそこへ」だ」

「「何かあったらあそこへ」か。分かった!今日の放課後ね!」

「急だなおい!まぁ、今日は部活も休みの日だし、別にいいか」

「よし、約束だ!」

 昔の二人の関係を知らないクラスメートが、二人のやり取りを不思議そうに見つめていた。

 放課後、和哉が帰宅すると、母親が掛け持ちしている夜のパートへ行く準備をしていた。母親は、和哉が再びすぐに出掛けようとしているのを見るなり、和哉に話しかけてきた。

「おかえり、和哉。今から昨日の公園に行くんでしょう?」

 母親は主に推理小説を好んで読んでいるため、推理力に長けていた。普段、帰宅しても家にこもり、めったに出掛けない和哉が、珍しく外出しようとしている。おそらく、昨夜のことが関係しているに違いないと推測したのである。

 母親が推理力に長けていることは、当然和哉も知っていたため、目的地を当てられたことにはさほど驚きはしなかった。

「うん。昨日の公園へ行ってくるよ」

「今日は夜のパートの日で遅くなるから、悪いけど夕ご飯は作り置きしてるのを温め直して食べてね。あまり遅くなったらだめよ」

「分かった。ありがとう!じゃあ、行ってくるね」

「あ、そうだ、聞き忘れるところだった!和哉、今日は学校、どうだった?」

「今日も普通だったよ。変わらない一日だった。一つ良いことがあったのを除いてはね!」

「そう!それなら良かった!」

 ※

 本の世界に没入すること。それには、仕事や学校、家事や子育てなど、現実で起こる全ての憂鬱なことから逃げることができ、そして忘れさせてくれる力がある。

 しかし、読書が終わって本の世界から出てしまい、そして職場や学校などそれぞれの戻るべき日常に戻れば、またいつもの憂鬱な生活が始まる。

 本の世界に没入することで得られる力は、たしかに一時的なものに過ぎないのかもしれない。

 しかし、誰かの時間を幸せにしているかもしれないし、また他の誰かの命を救っているかもしれない。そして、本の世界が人と人との縁を繋ぎ、絆を深めているかもしれない。

 この事実は決して一時的なものではない。永遠なのである。

「本の世界は無限大だ。この先、現実で嫌なことがあったら、本の世界に入り込め。必ずお前を救ってくれる」

 和哉は公園に向かう途中、父親の言葉を思い出した。

「父さん、ありがとう。父さんと母さんが教えてくれた本の世界。そのお陰で、一つの絆を結び直すことができたよ!」

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