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自己からの逃走—序
読むのを後回しにしてきた現代思想。去年の12月くらいから、やっと入門。
最初に読んだのは、浅田彰の『構造と力』だった。
『図解・標準 哲学史』を参照しながら…。
この本は、自分が描いていた勝手なイメージ(または何者かに押し付けられていたイメージ)とはまったく違っていた。
浅田彰の『構造と力』の一部にふれる
フランス現代思想の入門書だ。
ひたすら無味乾燥に解説するのでは全くないところがおもしろい。また、わかりやすく実用的な解説書とも対照であるといえる。
内容は硬くはなく、構造主義やポスト構造主義などに関する考え方を、私たちが考えやすいような文章に落としこまれているところがある。
例えば、第一章の「構造とその外部《近代》について」では
「近代社会のダイナミズムは脱コード化の必然的帰結である。脱コード化の結果、コスモスは沈黙せる無限空間へと還元され、ノモスは解体して人々は共同体の外に放り出される。(p.100)」
→ノモスといっても、今でも法はあるのだけれど、私たちの内面を支える「基準」というものはなくなったと私は読んだ。ニヒリズムになってしまった。それは、核家族になったことも含まれる。
→近代社会では、私たちの内面を支えていた、まとまった基準(本では象徴秩序)がなくなった…実存主義風にいうと、あの吐き気がする状態だったり、「なんでもしていいんだよ」と言われるとむしろ困ってしまう、あの状態に陥りやすくなった。あるいは、ルサンチマンから何か大文字のものにすがりたくなるあの状態に…。
基準がないことに耐えられなくなったとき…
「人々はわれがちに一方向へと走り出す。何か絶対な到達点があるわけではない。走ることそのものが問題なのである。一丸となって走っている限り、矛盾は先へ先へと繰り延べられ、かりそめの相対的安定感を得ることができる。しかし、足を止めたが最後、背後から迫って来るカオスがすべてを呑み込むだろう。それを先へ先へと延期するためにこそ、絶えざる前身が必要になるのである。こうして、近代社会は膨大な熱い前進運動として実現されることになる(p.100-101)」
→一方向とは、例えばナチズムなど。現代風にいうと「理想の自己(想像上)」や「仕事」、「志望校」であるかもしれない。これらに向かって一直線に走る。ただ、この熱中する対象がふと壊れたり、傷がつくと、自分(主体)ごと壊れてしまうかもしれないからとても危ういもの。
という感じで、私の次元に落とし込んで読める。
「序に代えて」について
「序に代えて」という序章では、人生において自らが与えようとする意味づけは過剰である(過剰なサンス)ことを言っている。
なぜ、人は不確定なもの(例えば受験)にこれほど熱くなれるのか?
「二者択一の問題には決してまともに答えないこと—略—ひとつのパターンを後生大事に守り抜くことは寺院にこそふさわしい(p.4)」
上記の問題に対して「できれば問題そのものをズラせてしまうこと(p.4)」と、ポスト構造主義的な考え方を勧めている。
「ずらして」いくこと
ご存知の通り、これは1983年の本だ。しかし、私が挙げたYouTubeチャンネルでも言われているように、現代にも通じるところがある。現に私は理想主義的なところがあり、完璧主義に陥りやすいため、この本には助けられた。
→もっと早く読んでおけばよかった!
また、日本は今のところ独裁を経験していないため、「一つの真理」や「正義」に向かうことへの危機感が薄い(ガードがゆるい)ところがあるのではないか?
あるいは、「理想の自分」(それも想像上の)を目指し、仕事など生活で自分をすり減らしていないか?
一直線に無限に走り続けるのを止めるべく、「自己からの逃走」としてみた。
この本が教える考え方の数々は、現在も必要だと思う。(自分なりに更新して取り入れるなどして)
もしも、「ニューアカ」で片付けられ、埃をかぶっていたのならば、もったいない。
〈今回の図書〉
● 浅田彰(1983)『構造と力』勁草書房