silent 10 解釈:「変わらないね」と「ありがとう」 言葉は何のためにあるのか
第10話の最後の場面は、ふりだしに戻ったかのような想(目黒蓮)の苦悩の告白だった。「もうこれは、第10話について考えても仕方がない。ハッピーエンドを期待して、最終話を待つしかない」とも思ったが、2回目の第10話を観て、紬(川口春奈)と想の、心と心をつなぐためのかすかな光が感じられた。希望を込めて第10話を考えてみたい。
「変わらないね」と「ありがとう」
第10話では、「変わらない」もしくは「変わった」ことに気づく場面と「ありがとう」と伝える場面が代わる代わる描かれた。
紬の家で借りるCDを選びながら、高校生の頃と同じようにCDとケースがちぐはぐになっていること見つけ、想は「青羽、変わんないよね」と愛おしそうに紬に語りかける。しかし、直後に洗い物をしていて手がふさがった紬にちょっかいをかけ、紬が楽しそうに声で話す姿をみて、耳が聞こえなくなったことを改めて実感してしまう。
想が光(板垣李光人)のレポートを届けることになった際、光は遠回しな表現で想を買い物(牛乳)に誘う。後に紬に「ちゃんと、ありがとう言ったから」とそのことを報告する。このありがとうにはきっと色々な意味が含まれているのだろう。エピソード0で光が紬を責めなくて良いように、想が「自分のせいだ」とかばってくれたこと。レポートを届けてくれたことや紬と仲良くしてくれていることも含まれているのかもしれない。
萌(桜田ひより)も渋谷に来たついでにタワレコに来たらたまたま会った、という程で紬に「お兄ちゃん久しぶりに帰ってきて、ありがとうございました」「ありがとうございますって、お母さんも言ってて」と伝えた。
カフェで待つ想が、カフェの入り口でイヤホンを外して前髪を整える紬を見つける。8年前最後に会ったときと、変わらない紬の仕草だった。「ビデオ電話してみたい」という紬の提案に想は関心を示さない。代わりに、「手話するとき 声出してるよね?」と紬の変わらない声のことを気にする。
光は湊斗(鈴鹿央士)にパソコンを直してもらっている。「姉ちゃんと佐倉くんってなんで付き合わないの?」という光に湊斗は「湊斗くんが良いって言ったくせに」と苦笑いしながらつぶやく。エピソード0での光の言葉を思い出させる場面だ。パソコンの修理が終わり、光は湊斗に「ありがとう」と伝える。
春尾先生(風間俊介)と奈々(夏帆)が春尾先生行きつけの居酒屋で飲んでいる場面。二人は昔と変わらずからかいあって笑い合っている。「なんで手話 仕事にしたの?」とたずねる奈々に春尾先生は「ろう者ともっとコミュニケーションをとって、理解しようと頑張れば、自分でも分かり合えるかもしれないって思ったから」と答える。さらに「手話はコミュニケーションの手段でしかなかった」「結局は伝えたいとか受け取ろうとか、そういう気持ちがあるかどうかなんだと思う」と言う春尾先生に、奈々は嬉しそうに「大人になったね」と返す。
家で真子(藤間爽子)から「なんで(佐倉くんと)付き合わないの?」とたずねられ、紬は「たぶん言い辛いことあるんだと思う。そういうの感じとっちゃうから、呑気に付き合ってって言えないよ。高校生じゃないし」と大人になって変わったことを実感する。
春尾先生と奈々が飲んでいる居酒屋に湊斗が入ってくる。紬をふったことを非難しつつ(湊斗には伝わっていない)、「春尾くんの手話教室、紬ちゃんに教えてくれてありがとう」と湊斗に伝える。湊斗は奈々にビールを注文してもらい「ありがとうございます」と想から教わった覚えたての手話で伝える。
宅飲みをするために、想がビールをたくさん買って湊斗の家に訪れる。湊斗はまた覚えたての手話で「ありがとう」と伝える。その後、紬からのLINEに返信しない想に「今更、気を使わないでよ。光から色々聞いてるし。なんなら光、早く付き合って欲しい感じだったよ」と湊斗は笑いながら話すが、想は浮かない顔で首を横に振る。「耳が聞こえない以外、何も変わってないって言ってくれたけど 変わったことが大きすぎる」と苦しい心境を吐露する。そして「好きだから一緒にいるの辛くて別れたんでしょ、同じ」と続ける。湊斗は昔の想と自分とでは違うと伝え、また昔と変わらない離れ方をしたら、許さないから、と釘を刺した。
そして最後、想は紬に苦しい気持ちを告白する。確かに理由を言わずに距離を置いた8年前とは違うが、その言葉は8年前に言えずに、再会した時に溢れ出した第1話の言葉と変わらないものだった。
このように、ほとんど交互に「変わらない」もしくは「変わった」ことに気づく場面と「ありがとう」をいう場面が描かれていた。第10話で、「ありがとう」と言うことができた人々は「変わった」人々だ。紬と想が出会ったことによって生じた波紋のような変化の波を乗り越え、考え方やコミュニケーションの手段を変えることで、家族や大切な友達とまた一緒にいられるようになった。
光や萌や律子は家族と一緒にいられるようになった。湊斗も紬との別れはあったが、想の耳が聞こえなくなったことを受け入れて、手話を少しずつ覚えながら想とまた親友に戻ることができた。
奈々は手紙で、昔の気持ちを「春尾くんが手話を仕事にすることが嫌だったわけではない。ただ、自分とは違うと思い知って、辛くなってしまっただけ」と書いた。その後、奈々は想に恋をして、失恋した。その中で紬とも出会い、耳の聞こえることを羨ましく思い、また違いを思い知ることもあった。そして、その辛さを乗り越えたとき、その考えに折り合いをつけることができた。このように、奈々も考え方が変わったし、春尾先生も「大人になった」つまり変わったからこそ、また一緒にいることができている。
想はどうだろうか。想もかつての奈々と同じように、紬がCDに関わる仕事をすることを嫌がっているわけではない。しかし、どうしても音楽が聴こえる紬と自分が違うことを思い知ってしまい、辛くなっている。もちろん、耳が聞こえなくなるということには私のようなへらへら生きてきた聴者には想像できないほどの苦悩があるのだろうと思う。しかし、想は耳が聞こえなくなったという変わったことの大きさがゆえに、それ以外が変わらないことを求めてしまっているのではないだろうか。
一緒にいれば変わらない部分が目に付くことも当然ある。しかし、一緒にいつづけるためには、「一緒にいる」ということを変えないためには、自分が変わらなければいけないのではないだろうか。
言葉は何のためにあるのか
このパートは「silent」の内容から脇道にそれる部分が多いと思うので、読み飛ばしてもらった方が読みやすいかもしれない。自分の考えを整理するために一応書いておきたい。
春尾先生は「手話はコミュニケーションの手段でしかなかった」と言った。つまり、話す言語を理解したからといってその人のことを理解することはできないし、その人がどういう文脈で言葉を使っているのかを理解することはできないと言うことだ。これはヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論に合致する考え方だ。ヴィトゲンシュタインは、言葉には一つに定まる真の意味というものはなく、ただその言葉が発せられた会話の状況や文脈によってその都度決められるものだと主張した。このように言葉の意味を決めるような状況や文脈などをルールと捉え、会話はこのような個別のルールにしたがって行われるものなので「ゲーム」だとみなすことできる。つまり、会話は「言語ゲーム」であると論じた。
重要なのはこのルールは会話ごとに異なっており、会話に参加している当人たちもそのルールを完全には分からないまま会話を行なっているということだ。とはいえ、ルールは完全にランダムなわけではない。ある日本語の会話とまた別の日本語の会話であれば、当然かなりルールは似ているはずだ。一方で、その日本語の会話とある手話の会話にも似たところを見出せるだろう。また、その手話の会話と英語の会話にも別の似たところが見出せるはずだ。このように、全ての会話に共通するような同じ点はないけれど、一対一で会話を比べると似たところを見出すことができ、全体として「会話」という集合体として捉えることができる。このような性質をヴィトゲンシュタインは「家族的類似性」と呼んだ。
この「言語ゲーム」と「家族的類似性」という概念をさらに発展させて、東浩紀は来るべき持続的な共同体に関する論を展開した。東は「言語ゲーム」の参加者からなるような共同体を想定した。さらに「家族的類似性」という概念とソール・クリプキという哲学者の論を援用することで、「言語ゲーム」のルール=共同体の規則自体がアクションが行われた後に参加者の合意によって定まっていき、遡行的に訂正されていくような共同体を提唱した。「訂正可能性の共同体」と名付けられたその共同体は、訂正前後のルールに「家族的類似性」があることによって、規則を訂正し続けているにもかかわらず、同一性を保持するのだと理論づけられている。
東の論文は政治哲学を主題としたもので、共同体という少し大きなスケールのものに対して立てられた理論であるが、ウィトゲンシュタインの論にたちかえると言語ゲームは二者のコミュニケーションをもとに論じられているので、東の理論は二者のコミュニケーションについても適応できるはずだ。
会話を続けることによってその会話のルールを訂正し続けていくことで、二者がコミュニケーションを続けていく、つまり一緒にいることができる。会話のルールとは会話における言葉の意味を決めるものであり、長く一緒にいる場合、会話の状況や文脈に加えて言葉の意味についての合意の積み重ねもルールに組み込まれている。それを訂正していくとはつまり、発した言葉に対する反応から互いが信じていたその言葉の意味をすり合わせていくことだ。二者のうちの一方に変化があり、使う言葉の意味が変わった際には、その都度会話によって言葉の意味をすり合わせていく。そうすることによって会話を続けることができ、会話を続けることで訂正可能性がもたらされ、継続して一緒にいることができるのだ。
すなわち、「訂正可能性の共同体」の理論を二人の関係に適応すると、「変わらない」二人でいるためには、言葉でコミュニケーションすることによってお互いに自分を訂正し続ける必要があるといえるだろう。
最終話の予告では、紬が言葉について語っている。
紬の言っていることはまさに上で長々と書いたことを端的に表していると思う。
分かり合うためではなく、自分とは違う相手と一緒にいるために、自分達を訂正していく会話という行為を続ける手段として言葉があるのだ。
「耳が聞こえない以外、何も変わらない」ままでは一緒にいることはできない
想は「声が聞こえないんだったらまた好きにならなければよかった」と言った。
しかし、想の紬の好きなところは、昔と変わらない声やCDを入れ違えてしまう少しおっちょこちょいなかわいい所だけなのか?出会い直した後、一生懸命に手話を覚え、想をまっすぐ見つめて思いを受け止めようとしてくれたからこそ、また好きになったのではないのか?それは二人で一緒にいるために、紬が努力して変わったからこそ見ることができた紬の姿だ。
想が苦しんでいるのは、昔も今も紬のことが好きだからだ。昔から好きだからこそ、過去の好きだった紬の影を見てしまう。
想の苦悩は想にしか分からないし、もちろん簡単に乗り越えられるものではないと思う。しかし、苦しくても想が好きな人と一緒にいるためには想自身も変わらなければいけない。
過去の紬を見るのではなく今の紬をまっすぐ見つめられるように、紬との会話を続けることによって想自身も変わらなければいけない。
以上長々と書いたが要するに、辛いだろうけれど、あとは想が紬の気持ちを受け入れられるように頑張るしかない、ということだ。
想が待たせたままになっている伝えたいことを、紬に笑顔で伝えられるような展開が観られることを願って、来週の最終回を楽しみにしている。